富岡八幡宮の宮司・富岡長子氏が、実弟の茂永容疑者から日本刀で切られ殺害された事件。マスコミでは姉弟間の骨肉の争い、茂永容疑者の乱行がクローズアップされ、「死後においても怨霊となり、祟り続ける」などと書いた遺書を神社関係者やマスコミなど2000カ所以上に送っていたこともセンセーショナルに報じられている。



 しかし、富岡八幡宮と茂永容疑者には、テレビなどのマスコミが一切報じていないもうひとつの顔がある。それは日本最大の右派団体「日本会議」との関係だ。

 先日の記事でもお伝えしたように、姉弟の祖父・盛彦氏は、神社本庁の事務総長(現在の総長)も務めた神社界の重鎮であり、「日本会議」(1997年結成)の前進である「日本を守る会」(1974年)の創立に尽力した人物。そして、事件の犯人である茂永容疑者も、富岡八幡宮の宮司時代の98年、日本会議の全国支部第1号である江東支部の初代支部長に就任していた。

 さらに、ここにきて、茂永容疑者が日本会議支部長として、さまざまな歴史修正主義、極右運動に深く関わっていたことがわかってきた。

 茂永容疑者が日本会議江東支部長に就任した1998年7月、産経新聞が「日本会議 江東支部が発足 支部長に富岡氏」という見出しの下、こんな記事を掲載している。


〈教育の正常化などに取り組んでいる「日本会議」(副会長・小田村四郎拓殖大総長ら四人)の江東支部がこのほど発足、支部長に富岡八幡宮宮司の富岡茂永氏が就任した。
 昨年発足した日本会議都本部(議長・外交評論家、加瀬英明氏)が区市町村単位の支部作りを急いでいた。全国的にも支部の発足は初めて。
 江東支部では今後、(1)教科書の「従軍慰安婦」記述削除(2)夫婦別姓制に代わる旧姓の通称使用を認める法改正の推進(3)首相の靖国神社公式参拝実現-などに向けて運動を続ける。〉

 これだけでも、茂永容疑者が日本会議の歴史修正主義運動、戦前回帰運動の最前線に立っていたことがうかがえるが、記事はさらにこう続く。

〈都平和祈念館問題については、地元住民組織「平和祈念館を考える墨東都民の会」(相沢春夫代表)と連携して、空襲遺族追悼に絞った展示を求める方針。


 そう、茂永容疑者率いる日本会議江東支部は、あの「東京都平和祈念館」建設阻止運動でも、大きな役割を果たしていたのだ。

 90年代になって、「自由主義史観研究会」や「新しい歴史教科書をつくる会」など、歴史教科書における日本軍の加害記述の削除を求める歴史修正主義運動が台頭したが、彼らがもう一つ標的にしていたのが、全国各地に建設されていた戦争資料館だった。

 こうした戦争資料館の多くは戦争の悲惨さを伝えることを目的としており、当然、日本の戦争被害だけでなく、アジアへの加害の実態を記録し、展示していた。ところが、歴史修正主義勢力は、この加害展示を「自虐的」として、展示の撤去や建設阻止の運動を展開したのだ。

 まず、1996年には「長崎の原爆展示をただす市民の会」が発足し長崎原爆資料館の展示を糾弾。長崎市は映像や解説文の約200カ所を削除・訂正することになった。
1997年には、大阪府に「戦争資料の偏向展示を正す会」が発足、大阪国際平和センター(ピースおおさか)の展示を「偏向展示」だとして大々的な抗議運動を展開した。

 こうした流れの延長線上で標的になったのが、東京都平和祈念館建設計画だった。東京都平和祈念館は青島幸男都知事時代に、東京大空襲の犠牲者を追悼するとともに、戦争体験と平和を希求する心を継承するという、至極まっとうな目的で立ち上げられた計画だったが、自由主義史観研究会の会員だった極右都議などが中心になって、「平和祈念館をただす都民の会」を発足。やはり「加害展示」の部分や東京を「軍事都市」と表現していたことなどをあげつらい、建設計画の凍結に追いやったのだ。

 自国にとって都合の悪い歴史に蓋をするため、戦争の悲惨さを後世に伝える機会そのものを奪う──まさに歴史修正主義丸出しの暴挙というしかないが、この運動を全面的にバックアップしたのが神社本庁と日本会議だった。そして、その日本会議で江東支部の支部長を務めることになった茂永容疑者は署名活動などで大きな役割を務めていたとみられる。
江東区は東京大空襲の被害の中心だった深川地区を擁しており、富岡八幡宮もまた空襲で焼失しており象徴的な存在でもあった。

 事実、当時、建設予定地だった墨田区横網町公園近くで行われた撤回を求める集会の模様を報じた産経新聞98年12月27日付の記事には、茂永氏が「神社関係者だけでも二千五百八十六人の反対の声を配達証明で届けている。都の(意見募集の)集計に不正があるのではないか」と自らの反対運動をアピールし、都の姿勢に対し陰謀論を展開するくだりが出てくる。

 茂永容疑者は当時、東京都内の若手神職(40歳以下)による団体「東京都神道青年会」の会長も務めており、この会や日本会議江東支部をベースに、反対の声を取りまとめていたのだろう。

 ちなみに、茂永容疑者が会長を務めていたこの「東京都神道青年会」も相当に政治的な組織だ。

 そのHPには、〈「民族精神の基盤たる神社振興の本義に徹して、国家再興のため強力なる運動を展開せん」という崇高なる精神を以て発会されました〉という時代がかった文章が掲げられ、活動紹介には「東京都神社庁・神政連東京都本部・日本会議等関係諸団体との連携した活動」「主権回復記念日(4月28日)靖國神社参拝及び国民集会への参加」という項目。
「基本活動方針」というページには「昨年来、国会では連日のように譲位問題が取り上げられ、国家最大の重儀である大嘗祭の斎行がいよいよ現実味を帯びて参りました。神政連・神青協との連携を密にして、憲法改正問題と併せ、時局問題には迅速且つ真摯に対応して参ります」という挨拶文が掲載されていた。

 そして、茂永容疑者が会長を務めていた時代、この東京都神道青年会はフィリピン・レイテ島で戦没者慰霊祭を企画するなど、日本軍の戦死者を英霊として讃える事業に熱心に取り組んでいた。

 いずれにしても、茂永容疑者は宮司の職にあった90年代から2000年代初頭にかけて、神社本庁の戦前回帰志向を体現するような極右思想の推進者として活動していたのである。ところが、それから20年。標的は、"自虐史観"から"身内である姉"に変わり、猟奇的ともいえる殺人事件を引き起した。


 周知の通り、日本会議は歴史修正運動とともに、愛国心や道徳教育の推進、伝統的な家族制度の復活にも力を入れている。彼らは「戦後の自虐史観教育で祖先を尊ぶ心が失われ、家族の繋がりが断たれた」などと主張して、「だから、伝統的な家族像を復活させねばならない」というようなことをしきりに喧伝してきた。

 しかし、そんな伝統的家族にこだわってきた団体の支部長第一号で、その運動に邁進してきた人物が、姉弟で骨肉の争いを繰り広げ、親族殺人を犯すというのは皮肉としか言いようがない。

 マスコミは、今回の殺傷事件の原因として、茂永容疑者の神職らしからぬ性格や放蕩三昧の生活をしきりに報道しているが、しかし、その経緯や冒頭で紹介した手紙などをみると、むしろ、茂永容疑者を犯行に走らせたのは、歴史ある神社の後継者、カネと人が集まる大神社元宮司としての歪んだエリート意識だったのではないかと思えてくる。

 自分だけが「伝統」を体現する特別な存在であり、自分を妨げる者は排除されて当然であり、その正義の名の下にどんな暴力も許される、そんな特権意識──。

 そう考えると、茂永容疑者がかつて先の戦争を肯定する歴史修正主義に邁進していたことと、今回の事件は地続きのようにも思えてくるのだが......。
(編集部)