とんねるずの唯一残ったレギュラー番組だった「とんねるずのみなさんのおかげでした」(フジテレビ)が今夜、最終回を迎える。前身の「とんねるずのみなさんのおかげです」から数えれば30年にわたって続いた番組(といっても途中、何度かの放送休止期間を挟んでいるのだが)が終わるにあたり、はたしてとんねるずはテレビやお笑いの歴史に何を残したのか、あらためて振り返ってみたい。

今夜最終回「みなさんのおかげでした」とんねるずはお笑いの歴史に何を残したのか…改めて考えてみた
とんねるずがブレイクする一つのきっかけとなったヒット曲「雨の西麻布」は、もともと「雨の亀戸」というタイトルだったとか。マンボ!(画像はイメージとして、筆者がこの記事のためにわざわざ雨の中を撮りに行ったものです)

従来のお笑いの常識を破った「長身」「体育会系」


1980年代、とんねるずはたしかに新しかった。雑誌「広告批評」の編集長を務めた島森路子は、1990年に刊行された『現代日本朝日人物事典』(朝日新聞社)の「とんねるず」の項目で、《182cm(石橋)、177cm(木梨)という長身。共に[引用者注――帝京高校の]野球部、サッカー部と運動部出身(ただし補欠)。ファッショナブル。都会的。といちいち従来のお笑いの常識を破る》と書いている。

作家の小林信彦もまた、長身と運動部出身であることを彼らの特徴と見て、《〈とんねるず〉において、〈体育会系のユーモア〉は重要な要素である。
日本のコメディアンは小柄なほどよく、大男で大成したのは益田喜頓さん(この方も元ノンプロの野球選手)ぐらいか。〈とんねるず〉は、大男のユーモアと高卒コンプレックスを武器にして、短期間にのし上った》
と評した(「新潮」1989年4月号)

なお、小林信彦は、いわゆる文化人のなかではわりと早い時期からとんねるずを評価していた稀有な存在だ。「みなさんのおかげです」が始まってからも、新聞のコラムで同番組をとりあげ、《一見、素人芸とみまがうこともやるが、〈とんねるず〉はれっきとしたプロなのだ。/ただ、私はナンセンスに殉じますといった発言(たとえば志村けん)などしないし、頭の悪いインテリがやる〈笑いの分類〉に入らないことばかりやっているので、判断ができない〈評論家〉が多いのだ》と、正当に評価できない世間を批判してもみせた(小林信彦『コラムにご用心』ちくま文庫)。

とんねるずには「へそ」がない


それでも「素人芸」といった見方は、長らくとんねるずにつきまとった。それも小林信彦が指摘したとおり、従来のお笑いの分類や系譜に、彼らが収まりきらなかったということが大きいのだろう。あるスポーツライターが、プロ野球・巨人のエースとして活躍した江川卓について「へそ(過去とのつながり)がない」と表現したことがあった。
これはとんねるずにも当てはまるような気がする。

70年代から80年代、とんねるずに先んじてお笑い界をリードしてきたタレントでいえば、萩本欽一やビートたけしは浅草で芸人修業を経験しているし、明石家さんまもまた元をたどれば落語家である。お笑いの師匠を持たず、ほぼ素人として世に出たタモリでさえ、クレージーキャッツやフランキー堺などといったジャズミュージシャン出身の喜劇人の系譜に位置づけることができよう。

だが、とんねるずにはそういうものがない。師匠にもつかず、どこかで修業を積むこともほとんどないまま、テレビに登場した。いや、強いていえば、テレビこそが彼らのルーツであり、修業の場だったのではないか。


帝京高校の同級生だった二人は、それぞれの部でひょうきん者として人気を集めていた。石橋は3年生の夏に野球部をやめると、テレビの素人芸のコーナーにたびたび出演、やがて木梨を誘い、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の「所ジョージのドバドバ大爆笑」に一緒に出ている。

1980年春に高校を卒業すると、それぞれ就職したが、「ドバドバ大爆笑」のスタッフが新たに日本テレビで新人の登竜門的番組「お笑いスター誕生!!」を始めるに際してオファーを受け、「貴明&憲武」のコンビ名で出場する。10週連続合格でグランプリ獲得という同番組で彼らは素人ながら善戦し、4週を勝ち抜いた。このとき早くも森永製菓からCM出演を打診され、契約を結んでいる。さらに「お笑いスタ誕」のグランプリになった漫才コンビのおぼん・こぼんが、それまで出演していた東京・赤坂のクラブ「コルドンブルー」をやめるというので、オーディションを受けてその後釜となった。


このときのオーディションの審査員で、コルドンブルーでショーの制作にあたっていたのが、日本テレビの名プロデューサーだった井原高忠である(井原はちょうどこの年、1980年に日テレを退職している)。石橋と木梨はオーディションに合格後、その井原から「プロになる気があるのなら、思い切ってやったほうがいい」と言われ、芸能界入りを決意、会社もやめた。井原には「とんねるず」というコンビ名もつけてもらう。これは、二人のイニシャルのTとNに由来し、「とんまとのろま」とどちらか選ぶように言われて選んだものだという(石橋貴明・木梨憲武『とんねるず 大志』ニッポン放送出版)。ただし、小林信彦が井原から聞いた話では、往年のお笑いトリオの「脱線トリオ」「てんぷくトリオ」からトンネルをイメージしたとも、あるいは「暗い奴ら」という意味も込められていたともいわれる(「新潮」1989年4月号)。

そのとおり、コルドンブルー時代の彼らは暗かったのだろう。
しかも店の客層は中年以上のお金持ちが中心で、それまで同年代を相手にしてきた彼らの芸はまるでウケなかった。結局、コルドンブルーは6ヵ月でクビになる。それでも奮起して、ふたたび「お笑いスタ誕」に挑戦。ゴールデンルーキー賞というシリーズの決勝で敗れはしたが、これをきっかけにいくつかの事務所から誘われ、「お笑いスタ誕」を手がけていた日企という番組制作会社に所属することになる。

事務所に入ってからは日本テレビの番組を中心に出演し、年齢からすればかなりの収入も得るようになった。歌手の西城秀樹が司会を務める「モーニングサラダ」という番組に出演し、構成を担当していた秋元康と出会ったのもこのころだ。


素人参加番組への出演を手始めに、「お笑いスター誕生!!」での善戦により大物プロデューサーからプロ入りをうながされ、コンビ名まで与えられた。最初に所属したのも番組制作会社と、とんねるずはまさにテレビから世に出て、テレビに育てられた“純テレビタレント”だったともいえる。その初期の持ちネタにもテレビに関するものが多く、のちの「みなさんのおかげです」では、「仮面ライダー」や「傷だらけの天使」など往年のテレビ番組をディテールまでこだわりながらパロディにしたコントが目玉となる。

ベンチャーとしてのとんねるず


とんねるずは最初に所属した日企から、前出の「モーニングサラダ」で親しくなっていた西城秀樹のマネジャーが新たに設立したAtoZという芸能事務所へ1984年7月に移籍している。そのタイミングでフジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」にレギュラー出演を始め、一躍スターダムに躍り出た。さらにその後タレントとして頂点をきわめると、1994年にはAtoZから独立し、石橋が社長となって個人事務所・アライバルを設立する。ここで注目したいのは、彼らが現在にいたるまで大手事務所に所属することなく活動してきたという事実だ。

とんねるずの「オールナイトフジ」への出演は、秋元康がディレクターの港浩一(現・共同テレビ社長)に紹介して実現したが、彼らはその後「とんねるずのみなさんのおかげです」を立ち上げ、ともに出世していくことになる。こうした番組スタッフとのフラットな関係は、師匠も、事務所に先輩・後輩もほとんど持たないとんねるずならではといえる。

その「みなさんのおかげです」を1986年にまず特番として始めるにあたり、石橋自ら当時のフジテレビの編成局長の日枝久(のちの社長)に、「必ず視聴率30%以上とるので、火曜ワイドスペシャルの枠をください」と直談判したことは語り草だ。ここにいたる背景には、それ以前より港ディレクターがとんねるずメインの番組の企画書を提出していたが、このころフジでは横澤彪プロデューサーの班を中心とした人気番組が好調で、バラエティの枠がなかったという事情もあったらしい(戸部田誠『1989年のテレビっ子』双葉社)。ただ、これが仮にとんねるずが大手事務所に所属していれば、事務所から局側に働きかけることもできただろうから、こうしたエピソードも生まれなかったような気がする。

とんねるずは、その事務所の規模からいっても、ときにはタレント自ら営業に動くスタイルからいっても、まさにベンチャーそのものだった。彼らは全盛期にあってもテレビのレギュラー番組は2~3本と、意識的に仕事を選択・集中してきた。これも小さな事務所だから許されたことだろう。大手事務所に所属していたのなら、ときには自分たちの意に沿わない仕事もこなさなければいけなかったはずだ。逆にいえば、彼らには、テレビ局なり事務所なり、もろもろのしがらみから引き受けたような仕事をしているイメージがない。たとえば、とんねるずが、芸人だけでなく俳優や文化人も集まるひな壇を取り仕切ったり、あるいはワイドショーでコメントを述べたりする姿はちょっと想像がつかない。考えてみれば、これほど長くフジテレビの看板ともいうべき番組を続けてきながら、同局の年に1回の祭典である27時間テレビで総合司会を務めたこともないのだ。

とんねるずの「蘇生」に驚いたナンシー関


この30年あまり、とんねるずには常に毀誉褒貶があり、ときには人気凋落がささやかれ、解散説が出ることもしばしばであった。

いまは亡きコラムニスト・消しゴム版画家のナンシー関はかつて、とんねるずが番組の裏方スタッフを集めて結成した音楽グループ「野猿」をヒットさせたことに驚きを隠せなかった。それというのも、彼女は「みなさんのおかげです」が終了した時点で《とんねるずは死んだと思っていた》からだ(「週刊朝日」1999年2月12日号)。

《私が、とんねるずは死んだと思ったのは、簡単に言ってしまえば古くなったからというのが理由だ。でも、とんねるず自身が老いたから、というのとは少々違う。とんねるずがそれまで巻き込んできた「客」の層が老いてしまった、と言ったほうがいいかもしれない。(中略)客が中心から降りてしまったということは、取り囲んでいたオーディエンスの姿がなくなってしまったということであり、そうするとただただカラ回りしているようにしか見えなくなるのである。それが死因だ。
 しかし、とんねるずは何も変えずに蘇生した。再び、人垣ができてきている。一度、オーディエンスの人垣を失ったタレントは、全く違う人垣をつくらなければ蘇生きないはずだ。(中略)が、蘇生とんねるずの新しい客というのが、これまた前と同じなのだ。(中略)まだ通用する、いや右肩上がりである。不思議だ》
(前掲)

ナンシー関がいみじくも指摘したとおり、とんねるずを“延命”させたのは、たしかに昔から支持してきたファンだったはずだ。とんねるずの二人もそんなファンに対し、サービスを惜しまなかった。ただそうしたファンサービスは、昨年の「みなさんのおかげでした」30年記念特番から起こった「保毛尾田保毛男」騒動のように、ときに時代とのズレも露呈させた。

ナンシー関は先に引用したコラムで、《現在全盛である、何かに挑戦したり、何かの渦中に身を置いてどう転がるかという不測の事態を追うとか、娯楽に興じているさまをそのまま番組にするなどのバラエティーの形は、すべてとんねるずが先鞭をつけたと言ってもいい》とも書いていた。そうしたバラエティのスタイルを完成させた時点で、ベンチャーとしてのとんねるずは役目を終えていたのかもしれない。それにもかかわらず、ここまで客の“人垣”をキープし続けてこられたのは、やっていることは同じでも、その見せ方をあれこれと変える手さばきがあまりに巧みであったからではないか。

とんねるずの今後は?


その「みなさんのおかげでした」もとうとう終わってしまう。今後とんねるずはどんな道を歩んでいくのか。すでに石橋は、4月からフジテレビで新たに「石橋貴明のたいむとんねる」と題してトーク番組を始めることが決まっている。木梨も同じく4月に久々の主演映画「いぬやしき」が公開され、さらに6月からは、アーティストとして英ロンドンを皮切りに個展を開催する予定である。

いまから3年前、ある雑誌のインタビューでとんねるずの今後を問われたとき、木梨は《ただ自分たちが面白いと思うことをね、やっていくだけだと思いますよ》と答えたのに対し、石橋は、《まあ、テレビに関してはもう少し遊べるスペースがあるのなら、そこでまだまだ遊びたいなとは思ってます。(中略)まだテレビというメディアは面白くなると思ってますからね。そのためにどんなことができるのかって、考えています。もっと違う形で面白いことがあるんじゃないかと思ってます》と語っていた(「BIG tomorrow」2015年7月号)。

コラムニストの泉麻人は2000年に《個人的には、野猿のような方向性のとんねるずよりも、じっくりと芸を見たいというお客がいるBSやCSの媒体で、「古舘伊知郎を相手に延々と世相を語る石橋貴明」とか「木梨憲武のストイックな演芸、あるいは主演コメディー」といったようなものを眺めてみたい、と思っています》と書いた(『秋元康大全97%』スイッチ・パブリッシング)。それから約20年。50代半ばをすぎたとんねるずも、ようやく腰を落ち着けて、それぞれ何かに取り組む時期が来たのかもしれない。
(近藤正高)