第48回衆議院議員総選挙は、きょう投開票が行なわれる。今回の選挙に際しては、小池百合子東京都知事を代表に、民進党から前原誠司代表ら一部議員が合流する形で新たに「希望の党」が発足した。
民進党が事実上の解体となる一方で、希望の党に合流しない枝野幸男氏ら同党の議員によって「立憲民主党」が結成される。

時をさかのぼれば、今回の選挙で台風の目となった小池氏も、前原氏も、そして枝野氏も、政治家としてスタートを切ったのは同じ政党だった。その政党の名は「日本新党」という。

日本新党は1992年5月、前年まで熊本県知事を務めていた細川護熙氏がまず一人で立ち上げた。このあと党員を募って、同年7月の参院選では細川・小池両氏ら4人が比例区で当選する。翌93年4月の東京都議会選挙では20議席を獲得したのに続き、7月の総選挙では、参院から鞍替えした細川氏と小池氏を含む57人が立候補し、うち35人が当選する大躍進となった。
選挙後、8月には、新生党・新党さきがけ・日本社会党・公明党・民社党・社会民主連合などと連立し、細川を首相とする非自民政権が誕生する。

このとき日本新党から出馬して当選した35人には、細川・小池両氏をはじめ、枝野幸男、前原誠司、野田佳彦(元首相)、海江田万里(元民主党代表)、長浜博行(元環境相、現参院議員)、伊藤達也(元金融担当相)、河村たかし(現名古屋市長)、松沢成文(前神奈川県知事)、中田宏(前横浜市長)、山崎広太郎(元福岡市長)、山田宏(前杉並区長、現参院議員)などの各氏がおり、いずれも衆院初当選だった。ちなみに、安倍首相、野田聖子総務相、岸田文雄前外相(以上、自民党所属)、高市早苗前総務相(当時無所属)もこの総選挙で初当選している。

日本新党は、自民党と社会党を軸とするいわゆる「55年体制」の終焉に大きく貢献したが、1994年4月に細川が首相を辞任して以降は、政界で求心力を失い、同年末には、新たに発足した新進党に合流する形で解党した。誕生からわずか2年半あまりのことであった。

しかし、大臣経験者や地方自治体の首長が数多く輩出されたことを思えば、日本新党はその後の政治に大きな影響をおよぼしたことは間違いない。
人材ばかりではなく、日本新党は、さまざまな点でエポックをつくった。この記事では、それについてあらためて振り返ってみたい。なお、以下、敬称は略させていただく。
小池百合子も枝野幸男も、みんな「日本新党」だった、かつての門下生たちが激突、総選挙、そして…
浅川博忠『「新党」盛衰記 新自由クラブから国民新党まで』(講談社文庫)。日本新党のほか、1990年代から2000年代初期の新党を中心に、日本政治史を振り返る

新党誕生の1年前に依頼されていた「結党宣言」


細川護熙が日本新党を結成する発端は、1992年5月、『文藝春秋』6月号で「『自由社会連合』結党宣言」を発表したことだった。

80年代末から90年代初めにかけてのこの時期、リクルート事件や佐川急便事件など与党議員のからんだ汚職事件があいつぎ、国民のあいだでは政治不信が強まっていた。細川はそうした状況に風穴を開けるべく、既成政党とは一線を画した新党の結成を企図したのである。「結党宣言」のなかで細川は、新党の基本目標として「立法府主導体制の確立」「生活者主権の確立と選択の自由の拡大」「地方分権の徹底」「異質・多様な文化の創造」「世界平和へのイニシアチブ」を掲げた。


これより前、細川は、ソニー創業者の盛田昭夫の主宰する「自由社会研究会」に参加し、政財界人や言論人たちと現行の政治システムを変えるべく日々議論していた。前年の1991年、『文藝春秋』の編集長になったばかりだった白川浩司は、たまたまこの研究会の関係者と接触する機会があり、そこで細川と初めて出会う。その席で《いずれ新党を作って自民党をぶっ潰し、総理としてこの国を改革したい》と語った細川に、白川は《新党の結党宣言は『文藝春秋』に発表して頂けませんか》と、さほど深く考えずに依頼したという(『週刊ポスト』2012年1月13・20日号)。

細川が実際に新党結成に向けて動き出したのは、周囲が思っていた以上に早かった。1992年4月半ばに白川が細川から「結党宣言」を受け取ってから、翌月に掲載誌の発売されるまでは箝口令が敷かれたものの、情報がマスコミに漏れたため、急遽5月7日、細川が一人で記者会見にのぞんだ。このとき彼は《今はソロを弾いていますが、やがて多数のオーケストラになります》と断言、一般紙の政治記者からは冷ややかな反応が目立ったのに対し、スポーツ紙などでは大きく報じられた(浅川博忠『「新党」盛衰記』講談社文庫)。


気鋭のクリエイターを集めて決めた新党名


このあと、5月22日には「日本新党」という党名が発表される。この名前を決める方法もかなり型破りだった。このとき、コピーライターの仲畑貴志やプロデューサーの秋山道男などといった気鋭のクリエイターが集められる。

彼らは、ホテルの部屋の壁に大きな紙を張り巡らせると、さまざまな言葉を書きこんでは「生きた言葉」と「死んだ言葉」とに振り分けていった。このうち「死んだ言葉」には「連合」や「市民」などがあげられていたという。そんな作業を2日にわたって行なった末、細川を含む5名がそれぞれこれぞと思うカードを出そうということになる。そこで2名の出した「日本新党」が多数決で選ばれた(東大法・蒲島郁夫ゼミ編『「新党」全記録 第III巻 有権者の中の政党』木鐸社)。
このときのことを、のちに細川は次のように書いている。

《今までの政党の名前からすると、極めて異例かつ斬新な名称で、私ははじめその言葉を聞いたとき、「それはいささか国粋的にとられかねないのではないか」という危惧の念を持ったのだが、仲畑さんらは「日本」という言葉こそ、今最も新しく訴える力があるという考え方だった。日本という国のかたちを新しく変えていこうという姿勢、理念を誠に単刀直入、そのままに打ち出したものだった》(細川護熙「解説にかえて」、仲畑貴志『この骨董が、アナタです。』講談社文庫)

従来の政党の名前が、主義、あるいは政治に対する姿勢からつけられていたのに対し、日本新党は、完全にイメージ先行で命名されたという点で画期的であった。

政権担当にあたりアマチュアリズムが仇に


日本新党が発足すると、来たるべき国政選挙に向けて候補予定者が一般公募のほか、当時細川が評議員を務めていた松下政経塾の卒業者にも呼びかけて集められた。1993年の総選挙では、候補者公募組から枝野幸男ら2名、松下政経塾の卒業者では野田佳彦や前原誠司ら7名が当選している。なお、日本の政党で候補者の一般公募を行なったのは日本新党が初めてといわれ、その後、自民党なども導入するようになった。


このほか、ニュースキャスターだった小池百合子は、細川の朝日新聞記者時代の同僚である伊藤正孝の紹介で、経済評論家の海江田万里は小池からの紹介で、それぞれ細川と会い、日本新党入りした。

候補者のなかには地方議会の経験者もいたとはいえ、大半は政治についてまったくのアマチュアという者が占めた。こうなったのも、細川が、政界や政党の手垢にまったく汚れていない新鮮な人物を求めたからである。

しかしアマチュア集団であることは、政権に就いたがために、むしろ支障となることも少なくなかったようだ。野田佳彦は、翌94年に細川の首相辞任後、離党者があいつぐなかで《総理を抱えたことで、これまでのように単純なアマチュアリズムでやっていけなくなった》と語った(『中央公論』1994年8月号)。枝野幸男もまた、後年、《日本新党はベンチャーだったと思います。私たちは政治を変えるために日本新党に結集したのであって、細川さんを総理にするためではありませんでした》と振り返っている(『週刊文春』2001年5月3・10日号)。

小沢一郎の“強引”な手段で政権入り、そして失速


こうして見ると、日本新党が政権に就いたのはあまりに早すぎたともいえる。こうなったのも、総選挙のあと、自民党か、共産党をのぞく非自民勢力か、いずれが政権を担当するかということになったとき、日本新党が新党さきがけとともにキャスティング・ボートを握ったからである。非自民勢力の中核には、新生党の小沢一郎がいた。

もともと細川は、衆院解散後のインタビューで、新生党との連立について《「既成政党とは一線を画する」という結党以来の立場から言えば、一緒に一つの党としてやっていくのは困難でしょうし、直ちにこのグループと直結するようなことは、われわれにとっては自殺行為に等しい》と明言していた(『文藝春秋』1993年8月号)。また、同じく政治改革をめざしながらも、新生党が小選挙区制の導入を唱えていたのに対し、細川は個人的にはそれに反対だった。

しかし、小沢から一緒に自民党政権を倒すべく説得され、「総理の椅子」まで用意するという思い切った手段をとられ、最終的に細川は非自民勢力と手を組むことになる。

細川内閣は、発足の翌年、1994年3月には小選挙区比例代表並立制の導入を定めた「政治改革4法」を成立させた。他方、これに先立ち、2月に唐突に「国民福祉税」を発表したところ、連立内の社会党やさきがけの反対を受け、すぐに撤回するという失態も見せた。この一件は、細川の政治的未熟さと、背後の大蔵省や小沢の強引な力を印象づけてしまう(後藤基夫・内田健三・石川真澄『戦後保守政治の軌跡(下)』岩波書店)。さらに佐川急便からの借金問題が持ち上がり、加えてべつの金銭疑惑が出てきた矢先、同年4月8日、細川は突然、首相辞任を表明する。

細川の首相辞任後、日本新党は急速に政界の求心力を失い、かつて20%台に迫る勢いだった支持率も1994年7月には1%を前後するまでに落ち込んだ。そのなかで離党者もあいつぐことになる。そして残った者たちも、同年12月に鳴物入りで結成された新進党へ細川とともに合流し、日本新党は解党した。

結党以来、日本新党の党務は、細川の熊本県知事時代からの側近に牛耳られ、「細川商店」ともいわれていた。そこから近代的政党へと脱却するべく、党則の改正に尽力したのが1年生議員の枝野幸男だった。しかし、それは結局つぶされてしまい、枝野も1994年5月に離党、民主の風という会派を経て、さらにさきがけに移り、96年には民主党の結成に参加することになる。

小池百合子は細川とともに新進党に移ったものの、新進党が解党すると小沢一郎らと自由党を結成、のちに小沢とも袂を分かって保守党をつくったが、2002年、当時の小泉純一郎首相に共鳴して自民党入りする。昨年の東京都知事選出馬をめぐる自民党内での対立から、離党にいたったことは記憶に新しい。

小池新党のシナリオを書いたのは細川か?


当の細川は、1997年に新進党を離れると、翌98年にはまたしても唐突に議員を辞職した。以来、陶芸を手がけるなど政治とは距離を置いていたが、2014年には、猪瀬直樹知事辞任後の東京都知事選に出馬して、人々を驚かせた。

その細川は、今回の総選挙の実施が決まる前、今年7月には小池百合子に安倍内閣倒閣への期待を込めた手記を週刊誌に寄せていた。いま、あらためてそれを読むと、今回の選挙に向けた小池の動きが、細川の構想と一部重なることに気づかされる。

《民進の核となる人たちと小池さんの党で倒幕がやれるのではないか。(中略)逃げ出す奴は逃がせ。そういう連中がいない方が、薩長同盟はやりやすい。(中略)改革は一定速度というものではなく、時に停滞し、時に飛躍するものだ。(中略)日本新党は飛躍の役割だった。小池新党もその役割だろう》(『サンデー毎日』2017年7月30日号)

もっとも、いざ小池が希望の党を立ち上げ、民進党議員に対しその公認をめぐり選別を始めると、細川は《同志として小池氏を手助けしたいと考えてきたが、排除の論理を振り回し、戸惑っている。公認するのに踏み絵を踏ませるというのはなんともこざかしいやり方で『寛容な保守』の看板が泣く》と批判した(『毎日新聞』2017年10月3日付)。

このほか、細川は先の手記のなかで、安倍首相のめざす改憲に小池がいかに対応するのか、《その時の小池さんの判断が日本のこれからを大きく左右する》と、やや不安ものぞかせていた。

今回の総選挙では、奇しくも細川のかつての門下生たちが争うことになった。政治家としての細川には功罪あるとはいえ、四半世紀前に彼が発表した「結党宣言」の理念には、いまでも有効と思われる箇所が少なくない。果たして、その真の継承者が現れるとして、誰になるのだろうか。きょうの選挙の結果だけでなく、その後の進展も慎重に見守りたい。
(近藤正高)