プロレスラーって、ヤぁよねえ。顔は怖いし、言葉は乱暴だし、着てる服はピッチピチだし、いつも汗をかいてる。
おまけにものすごい飲むし、ものすごく食べるんでしょ? ジャイアント馬場は自分の足のサイズと同じ大きさのステーキを1食に3枚も食べるって、昔の少年マガジンに書いてあったもの。想像するだけで胸焼けするわぁ。
プロレス好きな文化人は「これはプロレスだ」って言うけど宗教や政治をプロレスで語るのは可能なんですか
文系芸人のプチ鹿島がプロレス観戦歴30余年で見てきたもの、考えてきたことを濃縮した一冊。芸人・博多大吉やドキュメンタリー監督・森達也との対談も収録。

子供の頃から痩せっぽちで、極度の運動音痴でもあったぼくは、スポーツ全般が苦手なまま大きくなった。その延長上で、格闘技──ヒトとヒトとが争うようなものには興味が持てなかった。だから「プロレス」のこともわからない。

いや、それがどんなものかはわかる。
海パン一丁の大男たちが、四角いリングの上で取っ組み合いして、相手を叩きのめす。倒れた相手をマットに押さえつけて、レフェリーが3カウント取ったら勝ち。だいたいそれで合ってるよね?

ただ、これはあくまでも興行としてのプロレスを説明したに過ぎない。ぼくがわからなかったのは、プロレス好きな文化人たちが時として使う「これはプロレスだ!」と言う、その「プロレス」という言葉の微妙なニュアンスだ。

素人のぼくだって、プロレスがガチンコ勝負ではないことくらい知っている。かといって、なんらかの出来事に対して半可通が「八百長」というニュアンスでプロレスと言うのが間違っていることも、感覚的にはわかる。


じゃあ、正確にはどういう意味なのか? そう問われると、途端に答えに窮してしまう。やはり何もわかっていないのだ。……そこで、ぼくはこんな本を手に取ってみた。プチ鹿島の『教養としてのプロレス』だ。2014年に新書として刊行されたものに、巻末の対談(博多大吉、森達也)を加え、このほど文庫化された。

プチ鹿島といえば、芸能界でも有数のプロレスファンだ。
本書は、そんな彼の手による社会評論集である。採り上げられるテーマは宗教、アイドル、政治、SNSなど多岐にわたる。それらの諸問題に対して、鹿島はプロレスを軸にして縦横無尽に語り倒す。本業であるお笑い芸人なればこその、歯切れのいい文体にぐいぐい引き込まれ、気がつけば3カウント取られている。

しかし、宗教をプロレスで語る? 政治をプロレスで語る? そんなことが可能なのだろうか。

可能なのである。
なぜなら、ここでいう「プロレス」とは、裸の大男がぶつかり合うアレのことではなく、そのぶつかり合いがどういう経緯と必然をもってなされるに至ったのか、それを読み解く「モノの見方」のことを意味しているからだ。

宗教だって、アイドルだって、政治だって、プロレス的なモノの見方をしてみることで、新たな側面が見えてくる。そのことを知って、ぼくはようやく腑に落ちた。プロレスはリングの上にだけあるのではない。プロレスはどこにだってある。いや、言い換えよう。
プロレスはどこにでもあるわけではない。森羅万象を見つめる「ぼくらの中」にあるのだ。

鹿島は本書の中で「無駄なものを愛す」と告白している。普通の人は、コップ一杯の水を運ぶとき7分目まで入れてゆっくり運ぶが、プロレスラーはタプタプまで入れて全力で運ぼうとする人種だという。その無駄を愛おしむ。

「私はプロレスを見てきたからこそ、社会からグレーゾーンがなくなっていくことを実感する。
あらゆる事象に、すぐさま『正しいのか正しくないのか』『イエスかノーか』の判断が下される空気にはタメがない。無駄がなさすぎる。息苦しい」

そのとおりだと思う。社会は多様性でできている。ある者にとって価値のないものが、別のある者にはこのうえない価値をもつ。社会を見渡せば、そんな例はいくらでもある。つい先頃、特定の人々を社会にとって無駄な存在だと断じて、一方的に殺害を試みるおぞましい事件があった。彼らを無駄だなどと、誰が決められよう。

そんな悲しく息苦しい社会を少しでも生きやすくするためにも、プロレス的視線は持っているようにしたい。
(とみさわ昭仁)