僕が中学一年生の頃の話だ。
担任の先生は50歳前後のおじさんだった。
髪の毛が薄かった。
ところが、夏休みが終わり、ホームルームで久しぶりに顔を合わせると、その髪が猛烈に増えていた。そりゃあ、教室はざわついた。でも誰も先生にそのわけを訊かなかった。だって、見れば分かるんだもの。
次の日から生徒たちは陰で、彼をあだ名で呼ぶようになった。
それはもう、この上なく安直な蔑称だった。翌年、彼は学校からいなくなった。
別に薄くたっていいじゃないか。変に隠して若ぶろうとするから笑われるんだ。なぜ、周りの大人たちは教えてやらなかっただろう? あの頃の僕には不思議だった。
あんなにズレていたのに。


古市憲寿の新著『だから日本はズレている』を読んで、そんなことを思い出してしまった。
1985年生まれの古市は「朝まで生テレビ!」にも出演する若手社会学者。25歳のときに上梓した『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 』(2010)では「終わりなき自分探し」を「若者」たちに強制する社会へ向けて「あきらめさせろ」と主張し、『絶望の国の幸福な若者たち』(2011)では格差社会の犠牲者として語られがちな「若者」たちの実に70パーセントほどが「幸福」だと感じているというデータを用いて、「社会」という「大きな世界」に不満はあれども、生活圏である「小さな世界」には満足しているということを指摘した。
20代最後の年に出版した本書は、現代日本の実権をにぎっている「おじさん」たちの勘違いや的外れっぷり、すなわち「ズレ」の正体を解明しようとする。そして後半ではその「ズレ」のなかでもがく「若者」たちの実態を描く社会批評である。

「ズレ」は日本社会のいたるとこに存在するようだ。

たとえば、首相が短期間で変わる日本には「強いリーダー」が必要だ、という風潮が世の中にはある。しかし古市は、そんなものは別にいらないと言う。スティーブ・ジョブズのような成功者の例ばかりをとりあげて安易に理想化するところが気持ち悪い。不安な時代だからこそ人々は救世主を求めるが、独裁制はデメリットのほうが大きい。むしろ「『強いリーダー』がいなくても大丈夫なくらい、豊かで安定した社会を築き上げてきたことを誇ればいい」。

だが現代は豊かで安定しているだろうか? 国債などの国の借金は約1000兆円にもなるし、少子高齢化は進行するいっぽうだし、将来的に年金がちゃんと支給されると断言できないし、中国や韓国との関係は緊張しているし、なにやら排外主義的な空気が漂っているし、しかも原発の問題は依然として解決してないし……問題は山積みではないか。


それはみんなが知っている。古市が言いたいのは、国家による「政治」だけでなく、巨大企業などの様々な意志が絡み合っているなかで、もはやこの社会は「強いリーダー」だけで解決できるような分かりやすい仕組みではない、ということ。しかも企業は創造し変革を起こすチャレンジ精神旺盛な人材を求めており、「人間力」や「コミュニケーション能力」などといった能力を重視する。ある意味「誰でもリーダー」的な資質が要求されているわけだ。

だが、これもまた「おじさん」たちの「ズレ」なのだという。
「『コミュニケーション能力』や『チャレンジ精神』は、若者に対する過剰な期待と、中年以上の社員の自信のなさの複合物だと思う。
リーダー待望論の若者バージョンと言ってもいい。たとえば先輩社員が立派な『コミュニケーション能力』を持っているなら、新入社員の『コミュニケーション能力』が低くても対応できるはずだ」
すごい皮肉。ではこうした「過剰な期待」を持つ企業を中心とする就職活動自体に問題があるということか。

古市は「週刊東洋経済」などが発表する「就職人気企業ランキング」に注目する。10年で人気トップ10の企業の7割が入れ替わる。ランクインするのは広告投下量トップ100に入る企業のみ。
ここから「学生たちは業績や将来性で企業選びをしているのではなくて、その時点での話題性に踊らされているだけ」であることが分かるという。

就活戦線がニュースとして価値があるということは、日本人が「就職カースト」にとらわれていることを意味する。終身雇用のシステムが崩壊し、実力のある者は実力のある会社へと自然に流れると言われるが、実際は多くの人にとって「人気企業」の窓口は新卒採用が最も広い。そこではかつてと同様、結局「学歴」が重要となり、一度「就職エリート」の道から転げ落ちれば這い上がるのは難しい。学歴社会は過去のもので今は実力の時代だと喧伝されているところとの「ズレ」である。
「社会階層下位層の子どもたちが『自分探し』に走ってしまうのは、ある意味では理解できる行動である。歌手やアイドル、小説家や漫画家、パティシエ、ノマドワーカーなどの一見華やかそうな職業に『学歴』は必要とされない」

なるほど。芸能人や芸術家などの特別な才能が要求される業種はともかく、まだ「若者」にはノマドという手がある。会社に束縛されることなく、やりがいのある仕事を自由にしたい。少しの能力とやる気さえあれば現代社会をサバイブできるぞ!

しかし、である。古市曰く、80年代後半に登場した「フリーター」という言葉は、当初「プータロー」や「アルバイター」に代わるポジティブな「自由人」として生み出された。そのニュアンスは、今でいう「ノマド」に限りなく近かったという。その後、バブルが弾け長き不況に入る。約15年が経った今、世間で「フリーター」がどのような印象を与える言葉になったかは言うまでもない。

結局のところ、日本で定期的に起こる「新しい働き方」ブームの最新版である「ノマド」もまた「日本で働く会社員の見果てぬ夢」である。そう気鋭の社会学者に言われてしまっては、28歳での新卒採用という壁をのり越えねばならない大学生の僕にはぐうの音もでない。

さて、本書でとりあげられている「ズレ」はまだまだ沢山ある。
安部政権が復活させた道徳の副教材「心のノート」の内容は「90年代J-POP」の劣化コピーだし、自民党改憲草案は「退屈な日常を抜け出そう!」みたいな「ポエム」。
ネット上の「炎上」は過大評価されていて、みんなソーシャルメディアに期待しすぎ。(「とくダネ!」での自身の「炎上」のこともしっかり書いてある)
国がウン百億万も使って進めている「クール・ジャパン」もそう。「『誰に向けた、何のための発信なのか』というマーケティングと効果測定の視点が皆無」とばっさり。

こんな調子でとまらないのである。言いたい放題言いやがって!と思う人もいるだろう。だがそれも織り込み済みのようで、「もっとも〜」や「しかしながら〜」といった口調で適正に批評している。ただの悪口ではない。

この本には、一貫した態度がある。それは、ユーモア(皮肉)を交えて斜に構えるある種のニヒリズムだ。今どきの若者っぽさと言われそうな『希望難民ご一行様』の頃からの古市の芸風である。
最終章「このままでは『2040年の日本』はこうなる」を読み終えた頃には、僕は少し嫌な気分になった。
古市が想像する日本の未来は、明らかに暗い。じゃあどうすればいいの?って当然思うが、はっきりとは教えてくれない。彼は救世主的な「リーダー」に否定的だし、おそらく自分がなる気もない。それは、彼が「オピニオンリーダー」ではなく、「社会学者」であるからかもしれない。

僕が感じた「嫌な気分」というのも本書の戦略ではないか。
つまるところ、これだけ世代間格差があるなかで「若者」が「幸福」だと答えているのは、その思考がいかに近視眼的かを意味する。それを支えるのは間違いなく僕たちの主観であり、「いい気分」とか「嫌な気分」とか「アがる」「サがる」とかいうのと大差ない。だとすれば、ほんのりと「いい気分」に浸っている「平和」な僕たちにとって、社会の「ズレ」を見せつけることで「嫌な気分」にさせてくれる本書は、比喩的に言えば視力矯正みたいなものだ。
現代日本の問題を直視すれば、もっと「嫌な気分」になることは間違いない。
まずは「嫌な気分」を感じるところから「若者」による社会は始まるのである。

とまあ、こんな感じでレビューを終えてもいいのだが、もう少しだけ続けたい。僕の頭皮の話だ。
古市さんよりもひとつ歳下の僕は、最近抜け毛がはげしくなってきた。合わせ鏡で自分のつむじ周辺を見るのが恐い。まだカツラを被る必要はないが、体臭もキツくなった気がするし、いよいよ30代が近づいてきたなあという気持ちでいる。

結局社会を動かしているのは「おじさん」だと古市さんは言う。彼らには既得権益があり、お金をたくさん持っている。本書の仮題はずばり『「おじさん」の罪』だったらしい。(新潮社の「おじさん」たちに反対されたそうな)
僕からしてみれば、マスメディアで発言権を得た古市さんだって、着々と「おじさん」に近づいていっているように見える。実際、ニヒリズムが一周したのか、本書のなかで「おじさん」みたいなことも言っている。

「しかし『おじさん』になるのは、悪いことばかりではない。『おじさん』は『若者』よりもパワーを持っている。そのパワーを適切に使うことができれば、社会はきっといい方向に変わっていく。『おじさん』のふりをしながら、『若者』の気持ちを忘れないでいることもできるはずだ。そして『おじさん』と『若者』が手を組むのはそう難しいことではない」

古市さんも、僕も、いつまでも「若者」ではいられない。だけれども「おじさん」になったとき、安易に自分を肯定するのだけは絶対にやめてほしいし、したくない。

だからあえて「古市憲寿は『若者』たちの『希望』である」と僕は言う。

(HK 吉岡命・遠藤譲)