日本史がブームだ。特に新書では2017年に呉座勇一『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーになったことをきっかけに、日本史関連書が続々と刊行されている。


筆者は日本史にまったく疎い人間なのだが、それでも書店で「オッ」と惹かれて手に取ったのが『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』(中公新書)だ。
「邪馬台国はどこにあったのか」「明治維新は革命だったのか」『日本史の論点』は明快に答える

鎌倉幕府は「いい国つくろう」の1192年に始まったのではないことが明らかになったように、日本史研究は日々塗り替えられている。そこで古代、中世、近世、近代、現代の5つの区分で、現在注目を集めている29のテーマを専門家が解説するというもの。注目度は高く、8月末に刊行されたがたった5日で重版している。

テーマの例はこんな感じだ。

「邪馬台国はどこにあったのか」
「大化改新はあったのか、なかったのか」
「鎌倉幕府はどのように成立したか」
「元寇勝利の理由は神風なのか」
「戦国時代の戦争はどのようだったか」
「江戸時代の首都は京都か、江戸か」
「明治維新は革命だったのか」
「大日本帝国とは何だったのか」
「田中角栄は名宰相なのか」
「象徴天皇制はなぜ続いているのか」

ね、興味出てきたでしょ? いずれも過去の通説を覆すような最新の学説が詳しく論じられている。
古い歴史の教科書を鵜呑みにしていたら恥をかきそうだ。

邪馬台国があったのは畿内ではない!


最初の論点「邪馬台国はどこにあったのか」を簡単に紹介してみよう。

邪馬台国があったと考えられているのは二世紀末から三世紀のこと。『魏志倭人伝』に邪馬台国について描かれている。

まず、邪馬台国は当時の日本列島における最有力の権力、唯一の権力ではなかった。単に魏王朝と交流があったから記録に残っているだけに過ぎず、畿内にはすでに倭王権が成立していたと考えられている。北部九州の倭国連合が魏と交流しており、その中に邪馬台国が含まれていた。
邪馬台国には宗教的なシャーマンである卑弥呼がいたが、盟主的な存在だったのは伊都国(福岡県糸島市)だった。魏との外交を担当していたのも伊都国である。

邪馬台国は九州説と畿内説(奈良県、京都南部、大阪府、兵庫県南東部)があり、近年は畿内説が優勢とのことだが、本書で解説を担当する倉本一宏・国際日本文化研究センター教授は北部九州説を採る。

畿内説で有力な候補地とされる奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡には、『魏志倭人伝』に描かれていた物見櫓や環濠がない。物流の中心だった纏向は日本列島の中心的な権力である倭王権の王宮だったと考えると無理がない。また、『魏志倭人伝』に記載されていた帯方郡(韓国ソウル付近とされる)からの距離を考えると、邪馬台国の所在は伊都国の少し南となる筑紫平野南部に落ち着くという。


蒙古軍は「神風」で撤退したわけではない!


モンゴル帝国を築いたチンギス・カンの孫、フビライは国号を元とし、日本の征服を計画した。蒙古襲来(元寇)は1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2回。蒙古襲来は「神風」という幸運によって撃退されたと信じられてきた。

まず、文永の役で蒙古軍が撤退したとされる文永11年10月20日は、太陽暦(グレゴリオ暦)の11月26日にあたり、台風シーズンではない。暴風が吹いたとすれば、それは寒冷前線における玄界灘の冬の嵐である。

蒙古軍は2万7000の大軍が1日で上陸し、集団戦法で鎌倉武士を圧倒したと語られてきたが、実際には数千の軍勢で戦闘にも10日ほどかかっていたことが明らかになった。なぜ10日もかかったかというと、日本側が劣勢なりに善戦したからだ。
冬の嵐が続くと本国に帰れなくなるので、時間切れを悟った蒙古軍は自発的に撤退した可能性が高いのだという。

弘安の役では、蒙古軍は文永の役の数倍の軍勢を送ったが、蒙古襲来に備えていた日本側の水際作戦は万全だった。結局、蒙古軍は本格的な上陸を果たせないまま1ヶ月近く空費し、7月30日(グレゴリオ暦で8月22日)の台風による暴風雨で大半の船が沈んだ。だが、蒙古軍はそもそも一ヶ月も苦戦していたわけであって、「神風」が原因で撤退したとはとても言えない、というのが解説を担当した今谷明・帝京大学特任教授の解説である。

明治維新は「革命」ではない!


明治維新についての解説も面白い。近世からの視点による「明治維新は江戸の否定か、江戸の達成か」という論点(大石学・東京学芸大学教授)と「明治維新は革命だったのか」(清水唯一朗・慶應義塾大学教授)という論点の2つがある。


大石氏は、「倒幕派=西南諸般は近代的」「佐幕派=幕府や会津は後進的」という従来の見方を否定する。旧幕府軍も洋式化が進んでおり、近代的な議会制も構想されていた。倒幕派は徳川家が議会のリーダーであることが許せなかったのだ。

ただ、戊辰戦争は近代戦争であったわりに犠牲者が圧倒的に少なかった(アメリカ南北戦争は60万人、戊辰戦争は2万人)。これは江戸時代を通じて日本社会は共通化、均質化を達成しており、同朋意識が育っていたからだという。実際、幕府官僚も多数明治政府で働いていた。
大石氏は「江戸時代は旧制度(アンシャンレジーム)として切り捨てられるべきものではなく、明治維新という政権交代は『江戸の達成』として位置づけられるべきもの」と解説している。

清水氏も、江戸と明治には連続性があったと説いている。2010年代に入ってからは明治維新を「革命(Revolution)」と扱おうとする研究もあるというが、王朝交代があったわけでもなく、士族内で支配層が入れ替わっただけであり、革命にはあたらない。

維新の担い手たちについても、従来の「英雄史観」に基づく理解は否定されつつある。広範な研究により、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、坂本龍馬らの功績が相対化される一方、埋もれていた人物にスポットが当たることも増えてきた。たとえば、西郷や大久保の業績だと考えられていたことが、実際には薩摩の重臣・小松帯刀が中心になって行われてきたことが明らかになっている。一方、坂本龍馬の「船中八策」は後世に捏造された史料だという議論もあり、評価の見直しが進んでいるという。

新政府では幕末の志士たちが実質的な権限を獲得していく一方、実務経験に富む幕臣を継続して用いた。また、江戸時代の機構や教育の成果、人材登用における能力主義の萌芽が明治維新に大きな役割を果たしていた。つまり、明治維新は「革命」ではなく江戸の蓄積を巧みに生かした「革新(Innovation)」と捉えたほうが妥当であると清水氏は解説している。

かなりかいつまんで説明したが、本書にはさまざまな論考が簡潔に記されていて、筆者のように日本史に疎い人間でも非常にわかりやすい。また、当然ながら考え方に偏りもない。歴史に興味がある人には、おかしな陰謀論だらけの歴史書に毒される前に一読するのをおすすめする。
(大山くまお)