●なぜ売れない? なぜ買わない?

 モノが売れないと悩む売り手は多い。

 ビジネスをしている、即ち何かを売っている人のなかで、「私はもう十分売り上げをあげていますので、これ以上は結構です」という人はどれだけいるだろうか。

限定数を販売したら店を閉める人気ラーメン店など一部の例外を除けば、皆が売りたいのに売れない、と不満を抱えている。

 そして、悩みながら売れない理由を考える。価格設定を間違えた、広告やプロモーションが足りず認知度が上がらない、販売チャネルがうまく機能しないなど商品自体の問題がある。また、強力な競合がいるため売れないこともあるだろう。あるいは、相変わらず消費者の所得が増えないといった社会環境が原因となる場合もある。

 これら個々の要因により売れない場合もあれば、複合的に影響することもある。
いずれにしろ考えるほどに、往々にして自社や社会における「現象」に目が行きがちだ。

 消費者など買い手の「心理」にまでは、考えが及ばない人は意外に多い。なぜならば心理の把握は難しいと思われているからだ。

 その理由は第一に、売り手と買い手の接点が少ないことだ。一部の流通の現場などに接点はあるものの、そこで得られる数値データや接客経験は限られている。結果的に、心理に関する情報は少ない。
従って、買い手の心理と売れない原因を結びつけて考えることは容易ではない。

 第二の理由は、心理は個人によって異なると考えられていることだ。あらゆる人間の心理をすべて把握するのは無理だ。汎用的な法則があるかもわからない。考えても仕方ないと思ってしまう。

●モノを買うことは「選ぶ」こと

 実はマーケティングにおいて、AIDMA(Attention:注意 / Interest:関心 / Desire:欲求 / Memory:記憶 / Action:行動)や、AISAS(Attention:注意 / Interest:関心 / Search:検索 / Action:購買 / Share:情報共有)など、購買行動のプロセスを示すモデルが、すでにいくつかある。


 まず注目したいのは、これらは買い手が主語となった「選択」のプロセスであるということだ。彼らは、この世に存在するすべての商品に注意を払って関心を抱き、欲求を感じて調べて購入するわけではない。目についた商品群を、プロセスのなかで少しずつ絞り込んで、最終的に買う商品を決めるのだ。

 もうひとつ注目したいのは、このプロセスのなかでは、Interest(関心)や、Desire(欲求)など心理的要因が影響していることだ。Attention(注意)の段階で選択される方法については、かなり研究が行われてきた。これは主に「目に入れる回数を増やせば、注意を引くことができる」という単純な理屈があるからだ。


 しかしInterest(関心)や、Desire(欲求)は、「好み」といった個人的嗜好によるものとして片付けられがちだ。個人によって異なり、定量的な測定が難しいものは研究対象になりにくいのである。

 この「選択の心理」について深く研究が行われているのが行動経済学だ。これは経済学と心理学の中間にあり、人間がどのように選択、行動し、その結果どうなるかを究明する学問である。そのなかでは、理屈通りにいかない人間の行動についても解明が進んでいる。

 買う人間の心理を知るためのヒントも行動経済学のなかにはある。


●選択と迷いを解明する行動経済学

 「買う」という行動は、いわば選択である。買い手は意識的にせよ無意識にせよ「選択」を行っている。そもそもモノは溢れ、それらを伝える情報量も膨大であるため、実は選択の対象は限りなく多い。店頭を眺め、検索をし、記憶を探りながら、買い手は選択を繰り返す。その選択肢の数を計算すれば膨大な数値になるだろう。そうして最後に、大切なお金を支払って買う商品を決める。


 ではその過程で、買い手の心に何が生まれるのか?

 「迷い」である。当然のことだ。これだけ大量の選択を迫られるのだから。

 では人は、選択に迷うと何をするのか?

 行動経済学が示す知見のなかにヒントがある。「決定麻痺」というものだ。選択に迷ったときの人間の行動を示すものである。人は選択に迷ったときに、行動をしなくなる。選択を放棄するのだ。この場合でいえば、選択肢が多すぎると人は買わなくなる。決めることができずに買えなくなるのである。

●ジャム試食の実験

 このことを証明した有名な実験がある。米コロンビア大学ビジネススクールのシーナ・アイエンガー教授による「ジャムの実験」と呼ばれるものだ。米サンフランシスコのドレーガーズというスーパーの入り口近くに、有名ブランドのジャムの試食コーナーを設けた。そこでは24種類の試食ができる豊富な品揃えと、6種類に絞った少ない品揃えの2パターンを入れ替えて、試食する人数を測った。

 24種類のときには、通行する来店者の60%が試食に立ち寄った。逆に6種類のときは40%にとどまった。

 さらには、試食者がジャムを実際に購入したかどうかまで調べていくと意外な事実が表れた。24種類の試食コーナーを利用した人のなかで、実際に購入した人は3%にとどまる。しかし、6種類のコーナーで試食をした人のうちの30%が実際にジャムを購入したのだ。

 これら2パターンにおける「試食率」と「試食者の購買率」という結果を単純計算して、試食によって購買に至る割合を計算してみよう。品揃えを豊富にした24種類の試食コーナーにおける購買率は60%×3%で「通行人の1.8%」ということになる。逆に少ない6種類の品揃えでは、40%×30%で12%だ。

 即ち購買につなげるために、豊富な品揃えをするよりも、少ない品揃えのほうがなんと6倍以上の効果をあげたことになるのだ。

 実際の試食現場では24種類のジャムを目の前にした来店者たちの多くは、いくつものビンを手にとって眺めて検討したものの結局、元に戻して立ち去ったという。

●買い手と売り手はすれ違っている

 この実験からわかるように人は、あまりに選択肢が多すぎると、結局どれも選ぶことができなくなる。豊富な選択肢を目の前にしながら、何もしないということになる。売る側にとっては、困ったことだ。

 選択肢を用意するには手間や時間がかかる。それにもかかわらずあえて選択の自由を提供し、好きな商品を選んで満足してもらうために行っているのだから、これらの努力が完全に裏目に出るわけだ。

 しかし買い手は、意識的に決定を先送りしているわけではない。決定麻痺は無意識に起きるのである。決して売り手に無駄を生じさせようとしているわけではないのだ。つまり、売り手と買い手が、完全にすれ違っている状態なのだ。

 このようなことが起きる原因は、買い手の心理に対して売り手が抱く誤解だ。それは「多くの選択肢を用意することは顧客のメリットである」という考え方だ。そこに誤りがあるのだ。

 おそらく現代のように、あらゆる商品が市場に溢れる状態になる前には、買い手にとって選択できるのはありがたいことだったはずだ。自分の好きな色や形を選べる、またリーズナブルなタイプや高級なタイプから選択できる、などは単純に魅力だったのだ。その頃に通用した売り買いの常識は、今の時代では通じなくなりつつある。

 ここで紹介した行動経済学には、新たな常識を示してくれる可能性がある。人間の不合理な選択や行動を解明することで、買い手の心理が見えてくるためだ。決定麻痺も、そのひとつである。

 考えてみれば「買う」とは、これだけ商品が溢れているこの世の中で、たった一つの商品を選ぶという行動だ。理屈通りにはいかなくても無理はない。むしろ、どこかに不合理な要素がなければ起こり得ないものかもしれない。

 そして、こうしている今、この瞬間にも、モノや情報は増え続けている。同時に買い手と売り手も、すれ違い続けている。不合理な人間の心理を知る必要性は高まる一方だ。
(文=橋本之克/アサツーディ・ケイ シニアプランニングディレクター)