かつて、大河ドラマの主演には、伝統芸能の役者がよく抜擢されていました。記念すべき大河第1作目・『花の生涯』(1963年)では尾上松緑。
近年においては、『毛利元就』の中村橋之助(1997年)、『元禄繚乱』の中村勘九郎(1999年)、『武蔵 MUSASHI』の市川新之助(2003年)などが、テレビで大立ち回りを演じてきたものです。
木村拓哉を差し置いて、北条時宗役に抜擢された和泉元彌
和泉元彌もそのうちの一人。もっとも、先述したのは全員歌舞伎役者であり、彼は狂言師の出。
「和泉流宗家」の看板を掲げる元彌は、1998年に放送された『ネスカフェ ゴールドブレンド』のCMでブレイク(「違いが分かる男」でお馴染みのアレです)。
そこから、あれよあれよという間にスターダムを駆け上がり、2000年の年末には紅白歌合戦の白組司会、そして2001年初頭からは、大河ドラマ『北条時宗』の主役として茶の間を賑わせることとなるのです。
ちなみに、元彌以外で時宗役の候補として上がっていたのは、木村拓哉、竹野内豊、中井貴一。
どのような経緯があるにせよ、これら顔ぶれを差し置いて、主人公役を託されたということ自体が快挙であり、このエピソード一つとっても、当時の勢いが分かるというものでしょう。
『北条時宗』放送終了後も、2002年冬季開催のソルトレイクシティオリンピックにおけるTBSのメインキャスターに抜擢されるなど、順風満帆なタレント生活を送っていた元彌。
しかし、盛者必衰の理。この年に発覚した「和泉流宗家継承問題」に端を発するさまざまなスキャンダルにより、たけき者もついには滅びていくのです……。
「宗家継承問題」が火種! 能楽協会から退会命令が下される
「和泉流宗家継承問題」とは何かというと、正式な手続きを経ることなく、元彌及びその家族が勝手に「和泉流宗家」を名乗り始めたことによる騒動です。
結論からいうと、このトラブルによって、元彌は能楽協会から「退会命令」を下されます。
理由としては、そもそもが能楽宗家会の了承なしの宗家継承だったこと。加えて、公演のドタキャンや遅刻、協会の批判、話し合いの拒否などが、協会サイドの心証を悪くしたことも一因として挙げられます。
この和泉流のお家騒動は、「元彌ファミリーvs反対勢力」という図式に簡略化され、ワイドショーなどで、センセーショナルに報道されました。元彌の実母「節子ママ」も、インパクト絶大な渦中の人物として、大いに世間の関心を引いたものです。
そして、このメディアイベントの沸点ともいうべき出来事が、元彌のダブルブッキングによる“世紀の大移動”でした。
岐阜から東京を3時間以内で移動するハメに……
2002年7月27日・快晴。この日、元彌のスケジュール帳は、あり得ないことになっていました。
●午前9時10分:岐阜県可児市の文化創造センターで公演終了
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●午後0時30分:東京・新宿コマ劇場公演『天翔ける獅子ー義経と弁慶』開演
岐阜から東京までは約400キロ。それを3時間以内に移動するというのです。あらゆる交通機関を駆使しても、物理的に間に合いません。言うまでもなく、元彌のずさんなタスク管理が招いた人的ミスです。
素直に謝って済ませば良いものを度重なる騒動で世間の批判が集まっているため、これ以上失点はできないと考えたのでしょうか。元彌陣営は、なんとヘリコプターと小型ジェット機をチャーター。
マスコミとのカーチェイスが展開される
岐阜での公演終了後、元彌は車に飛び乗り、所定の駐車場へ。そこでヘリコプターに搭乗し、わずか15分ほどで名古屋空港へ着陸。同空港よりセスナ社製の小型ジェット機に乗り込み、一路、羽田空港へと急ぎます。
同時刻、羽田は報道陣でごった返していました。追跡用の車・オートバイは計30台あまり。
待ってましたとばかりに、マスコミがそれを追走。アクション映画さながらのカーチェイスが繰り広げられ、午前11時10分、2時間余りでついに元彌は“約束の場所”コマ劇へとたどり着くのでした。
今考えると、なんと大がかりなイベントでしょうか。
「退会命令」以降は、能楽協会関連の舞台以外で細々と公演を続けたり、プロレスに参戦したりと、流転の人生を送っている元彌。タスク管理能力はなくとも、エンターティナーとしての才能は豊かな彼が、また日の目を浴びることを期待したいものです。
(こじへい)
※イメージ画像はamazonよりNHK大河ドラマ 北条時宗 総集編 後編 ~豪古襲来~ [VHS]