自分では親切にしたつもりが、相手にとって迷惑な行為となってしまうことってありますよね。

精神科医の名越康文(なこし・やすふみ)先生によると、その行為の裏には、「好奇心」が含まれているからなんだそう。

どういうことなのでしょうか?

人に親切にしてますか?

「人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしみたいものだ」夏目漱石

夏目漱石が1908(明治41)年に発表した青春小説『三四郎』の有名な一節です。大学の友人・与二郎が、主人公の三四郎に言う台詞ですね。

こういうシニカルだけど真っ当な人間理解って、漱石の真骨頂ですよね。人間が他人に親切をしてみたい範囲は、「自分が困らない程度内」である。これってすごく普遍的でしょう。裏返すと、人間は自分が困る、負担になるレベルの親切は正直したくない。

しかもそれをやっちゃうと、たぶん往々にして人間関係自体が壊れちゃうんですよ。

特に日本の場合は「空気を読む」ことが重んじられる——たとえば頼みごとをする時も、相手がさほど負担に感じない頃合いでお願いする、とか、あるいは相手がその気になってくれるのを待つ、とか。こちらの頼みごとのせいで、お互いの関係にヒビが入ったらいけないから、なるべく迷惑にならないよう、慎重に気を遣いますよね。

それが「親切」ともなると、こっちからの能動的な働きかけで、相手に喜んでもらおうとする——つまり推測や妄想がたくさん入り込んでくる行為だから、人間関係のパワーバランスとしても非常に複雑繊細になってくるんですよ。

親切心の裏側に隠れている「好奇心」

実際、「親切」っていうのは本当に難しいと思いますね。「自分が困らない程度内」の親切——これはまさに人間の心の摂理なんやけど、その摂理が知らず知らずのうちにねじれるんですな。

最初は「自分が困らない程度内」で親切をしてみても、だんだん余計なことにまで踏み込んじゃって、感情がこんがらがるような事態になっていく場合もよくあると思うんです。

そこに働いているのは、実は隠れた「好奇心」のような気がするんですよ。自分が次の親切をした時の、相手の反応を見てみたい、とかね。そこでのっぴきならない人間関係が生まれる。

多分、漱石はそれを嫌ったんでしょうね。贈り物を一回したおかげで、それ以降、面倒臭い関係性を維持しなくちゃならないような現実のわずらわしさを。

だからこの漱石の言葉って、人間のなまけものな部分、欺瞞(ぎまん)とか利己性を非常に鋭く突いてくるものでもあるんですよ。

人間は誰でも、親切な人だと他人に見られたい。「いい人ですね」と好意を持たれたい。でも実際に親切をするのって、ものすごく面倒臭い(笑)。この二律背反、矛盾の宙ぶらりんを生きているのが人間の心なんでしょうね。

それこそシニカルな話になりますけど、「自分が困らない程度内」の親切っていうのは、自分の気がラクになりたいから、ってところがありますよね。

たとえば電車の中でお年寄りに席をゆずらず、つい寝たふりをしてしまった。これってけっこう罪悪感として残る。

でも明くる日、今度はうまくゆずれると、前回の失点を帳消しにするような感覚で、自分のことを「マシな人間だ」と思える。これって、他者の事情はもう全然関係ない(笑)。自分の中の利己性のみで完結した話です。

能率のいい「親切」は許すこと

ついでに、ちょっと“悪魔の心理学”めいたことを言いましょうか。

「親切」でいちばん手っ取り早いのは、誰かが失敗した時に、その失敗を許すってことです。たとえ自分が多少の迷惑をこうむっても、「いいよ、いいよ。そういうこと、誰にでもあるから」って、笑顔で許してあげる。場合によっては援助を少しだけ買って出る。

これって自分が受け身のまま、大きな「親切」の印象を相手に与えるでしょう。要は「怒らなかっただけ」なのに、向こうはこちらをものすごく「いい人」だって思ってくれますよ(笑)。

失敗した人を明るく許してあげることは、実は非常に能率的な「親切」なんですね。ただ、自分の感情のコントロールに長けていないと、これは難しいですけども。ついカーッときたり、面倒臭いな!と顔に不快感が出たりすると、それだけで失敗した相手は「責められた」と感じちゃいますから。

「親切」が自己犠牲になる瞬間

ただ、人間のさらに不思議なところが、なにかの瞬間にその面倒臭さがハジけて、逆に相手にぐっと深く関わり始め、自分が小さな犠牲を払う、まさに面倒臭い「親切」に奔走することすらも快感が起こる、という段階に入っていくことがあるんですね。

こういうのを「反動形成」というんです。つまり相手に対する怒りを自分からも相手からも隠そうとする動きが起きる。そういうと誤魔化しをしているように見えるかも知れませんけど、同時にそれは「孤独を癒す」っていう段階に入っていることでもあるんですね。

「自分が困らない程度内」を超えた親切にまで踏み込んだ瞬間、ある種「相手が自分になる」んですね。最初は好奇心から、相手に対して感情移入が始まり、だんだん共感性が高まって、ついには自分と見分けがつかなくなる。

だから相手がホッとしたり、喜んだり、トラブルを回避して助かったりしていることを、自分のことであるかのように感じる。

これって、たとえ実際は自分の独善的な暴走に過ぎなかったとしても、時間を経て相手との絆の感覚を強化し、寂しさを埋めるところがありますよね。「親切」による、孤独からの解放。そこまでくると、自己犠牲が快感になってくるような転倒が起こる。

このような自己犠牲が、わりあい常態として起こりやすいのは、子育てにおいてだと思います。親子の情愛。おそらく人間、あるいは哺乳類や鳥類などの生命体が「自分の命を投げ打って戦う」、捨て身で誰かを守るっていうのは、ほとんど親子の関係の中でしか起こりえないのかもしれません。

「自分が困らない程度内」の親切とは?

もし具体的にね、「自分が困らない程度内」の範囲を定義するなら、僕たち日本人の場合は「自分のスケジュールを変えなくていい限り」ってことまでかな、と思うんです。

自分のスケジュールがちょっとタイトになる、くらいならOK。でも、今日の予定だった案件をわざわざキャンセルして、明日に無理して組み込む、とか、一週間きっちり組んでいた仕事の進行が一気に狂っちゃうとかだと、これはキツいよ~!(笑)。

僕だって「ちょっと相談に乗って欲しいねん」って突然友だちから言われても、自分の仕事のスケジュールを変えてまでは現実的に無理やもん。ただ、空いている隙間の時間なら、次の予定を考えるとちょっとしんどい感じはあっても、あいつが困ってるんならええわ、よし会おう、って具合に踏み切るのがせいぜいだと思う。

ただ唯一、自分の子供のためだったら、わりと躊躇なくスケジュールを変えられるんじゃないかなって。たとえばウチの子供が病気になって、どうしても自分の付き添いが必要な場合とかだったら、すぐマネージャーに相談しますね。やっぱり僕も哺乳類やから(笑)。

それから恋愛というのも、ある種、親子の情愛の擬態であると言えると思います。

熱烈な恋愛の渦中にいる人というのは、好きな相手のためだったら、自分のスケジュール、キャリアに関わる重要な予定すらも変えちゃうことがある。でも、こういう自己犠牲が行き過ぎると、盲目的な依存とか、過剰に尽くしすぎて相手をダメ男にしてしまうとか、いろいろと自分が破綻する危険性は孕(はら)んでいるんですけどね。

そう考えると「親切」の問題って、なかなか一筋縄ではいかない恋愛の悲劇性にまでつながってくるところがありますよね。それは「好奇心」の問題ともつながっていて、これ以上行くと溺れるとわかっていながら、つい危険水域まで踏み込んじゃうとか。

ただ、僕個人の意見としてはね、本人が覚悟のうえなら、それもアリじゃないかと思うんです。「自分が困らない程度内」を超えて、相手や対象に踏み込んでいったほうが、人生が想定外なレベルにまでダイナミックに動くということはある。

もちろん大変な修羅場に直面するかもしれませんよ。でもまあ、それもまた人生ではないですか(笑)。