きょうからテレビ朝日系で、黒柳徹子の半生を描帯ドラマ劇場「トットちゃん!」が始まる。スタートは昼12時半と、黒柳司会の「徹子の部屋」に続けての放送となる。
黒柳を主人公にしたドラマといえば、昨年、NHKで放送された「トットてれび」が記憶に新しいだけに、描写の違いにも興味が湧く。

「トットちゃん」とは、黒柳徹子の子供のころからの愛称だ。彼女が自らの小学校時代をつづった著書も、『窓ぎわのトットちゃん』というタイトルだった。同書では、普通の小学校では問題児扱いされた黒柳が、児童の個性を尊重する自由な教育を行なっていたトモエ学園に転校してからというもの、のびのびと育っていく姿が描かれた。その内容は、今回のドラマでもたっぷりとりあげられることだろう。
ドラマ「トットちゃん!」本日スタート『窓ぎわのトットちゃん』はなぜ戦後最大のベストセラーになりえたか
いわさきちひろ描く少女像がカバーを飾った『窓ぎわのトットちゃん』(文庫版)。装丁は、黒柳徹子とは旧知の仲のイラストレーターでグラフィックデザイナーの和田誠

いまなお世界中で読まれるロングセラー


1981年3月に講談社より発売された『窓ぎわのトットちゃん』は、同年11月末には発行部数が370万部を突破し、それまで戦後最大のベストセラーといわれていた『日米会話手帖』(1945年)の記録(360万部)を抜いた。現在までに800万部に達している。
この間、1981年12月には児童向けの総ルビ版が出され、1984年には文庫化、その後も2006年に新装版、さらに先週末、9月29日には電子書籍版が発売されたばかり。形態を変えながらも、読み継がれるロングセラーとなっている。

また、1982年には英語版がアメリカでも発売されて以来、各国語に翻訳され、海外でも広く読まれている。中国でも日本との出版協定がないなか、早くから出版されていたが、2003年になって正規版が出て、今年5月には1000万部に達したという。

『窓ぎわのトットちゃん』はなぜここまで売れたのか? これについては、すでに同書の発売の翌年、1982年に出た『『トットちゃん』ベストセラー物語』(塩澤実信・植田康夫共著、理想出版社)という本でくわしく分析されていた。そこに書かれたヒットの要因としては、「本の製作」にあたっての著者と編集者のこだわり、また、読者の口コミや、また当時現われ始めた大型書店も一役を買った「販売促進」、さらに「時代背景」として本書が一種の教育書として読まれたこと……などがあげられる。
本記事では、これらを踏まえながら、『トットちゃん』がベストセラーになる過程を振り返ってみたい。

編集者がゲラを読みながら泣いた――「製作」に込められた思い


『窓ぎわのトットちゃん』の原型は、その刊行の20年ほど前、黒柳徹子が「婦人公論」誌にトモエ学園での体験をつづったエッセイだ。これを読んだ講談社の編集者が「一冊に書いてみませんか?」と持ちかける。結局このときは実現しなかったものの、トモエについてちゃんと書くという課題は黒柳のなかに残った。その後1979年、講談社の月刊誌「若い女性」に2年にわたって連載し、これを一冊にまとめることになる。

書籍化を担当したのは、講談社の学芸図書第二出版部にいた岩本敬子という女性編集者だった。岩本はノンフィクションものを担当するようになってから企画力のなさを痛感し、一時は会社をやめようかとさえ考えていたという。
しかし《私は私でしかないんだし、私らしい、私しか作れない本を一冊でもいいから作ろうと思う》ようになる(『『トットちゃん』ベストセラー物語』)。『窓ぎわのトットちゃん』の仕事は、ちょうどそんなときに回ってきた。

岩本は、1933年生まれの黒柳とほぼ同年代だった。戦時中には黒柳と同様、空襲を避けて東京から地方へ、家族と別れて疎開した経験を持つ。ゲラ(校正刷り)を読み返すたび、そこに書かれた内容と自らの体験がオーバーラップし、岩本は涙を流したという。

岩本は製作中より、100万部を売るロングセラーを目標に据え、とにかくいい本をつくろうということだけを念頭に置いた。
若い人に読んでもらいたいということもあり、本全体として絵本的なイメージが強調された。たとえば本文には、全文ナール系(丸ゴシック体)のソフトな写植文字が用いられ、それを13級(9ポイント)の大きさで、1ページにつき43字17行で組んだ。このおかげで字が大きく見えるという効果がもたらされる。

挿絵やカバーには、いわさきちひろの絵が使われている。これは黒柳が雑誌連載中、毎月、東京・練馬のいわさきちひろ絵本美術館に通って厳選したものだ。いわさきは1974年に亡くなっていたにもかかわらず、絵は文章にぴったりと合い、まるでこの本のために描かれたかのようにさえ思わせた。


当初、刊行は1981年の正月に予定されていたが、あまりにこだわったためか製作が遅れ、2ヵ月延びた。だが、すでに1月中旬には新聞に広告を出していたため、発売がずれ込むあいだにも書店から予約注文があいつぎ、初版は2万部と決まる。

女性の口コミで評判が評判を呼ぶ――「販売促進」の展開


『窓ぎわのトットちゃん』の初版分は3月13日(書店への正式搬入は3月10日)に発売されると、すぐ予約読者に渡り、店頭に並ぶ間もなく品切れという現象が起こった。版元ではそれを見越して、初版発売直前には早くも2万部の増刷を決め、発売から2週間足らずで出荷、それでも注文はやむことなく、何度も版が重ねられることになる。

黒柳は発売に先立ち、2月末にテレビで本を紹介、発売後も「徹子の部屋」「ザ・ベストテン」など黒柳の番組で共演者が言及したり、TBSラジオの「久米宏の土曜ワイドラジオ東京」で特集されたりして、同書は人々の関心を惹く。

しかし、『窓ぎわのトットちゃん』をベストセラーに押し上げたのは、そうしたマスコミによるパブリシティだけではない。この本の発売当初の読者の9割は、主婦など女性であったという。
彼女たちの口コミで、話題が話題を呼び、読者層は広がっていく。発売から1ヵ月半で早くも目標としていた100万部に達し、150万部を突破するころには、男性にもかなり読者が増え、さらに小中学生へと読者年齢が若くなっていった。

売り上げは発売6週目に急激に上がり、並みのベストセラーならそのあたりで終わってしまうところを、『窓ぎわのトットちゃん』は以後も持続し続けた。発売13週目を迎える6月頃には、版元の販売部の電話は、書店からの注文で鳴りっぱなしだったという。

『窓ぎわのトットちゃん』の売り上げ拡大には、このころ登場し始めた大型書店の貢献も大きい。ちょうど同書が発売された1981年3月には、東京・神保町の三省堂書店神田本店がリニューアルオープンしている。

三省堂本店は、売り場がビルの1~6階を占め、その面積は当時日本一と謳われた。『窓ぎわのトットちゃん』が発売されるとさっそく、専門各フロアで客の目に触れるよう本が陳列された。また、店頭に本をタテヨコ高さに10冊ずつ積み重ねる「100面展示」も行なわれた。最近、又吉直樹の『火花』など話題書が出るたび、大型書店では本を何冊も積み上げる「タワー積み」などといった販促戦略が展開されているが、その原点は『窓ぎわのトットちゃん』にあったといえる。

教育論として読まれる――「時代背景」が生んだベストセラー


『窓ぎわのトットちゃん』のあとがきは、《一九八一年。――中学の卒業式に、先生に暴力をふるう子がいるといけない、ということで、警察官が学校に入る、というニュースのあった日。》と結ばれていた。ここからもうかがえるように、この本が刊行されたのは、全国の中学・高校に校内暴力の嵐が吹き荒れていたころだった。

同時期に人気を集めたドラマに「3年B組金八先生」の第2シリーズがある。そこに登場した加藤優という生徒は、トットちゃん同様、通っていた中学で問題児扱いされたため、桜中学に転校、そこで担任となった坂本金八の体当たりの指導を受けるうち、しだいに心を開いていった。ちょうど『トットちゃん』が発売された1981年3月には、最終回を前に、加藤が以前通っていた中学の放送室を占拠し、かつて教師たちに受けた理不尽な仕打ちを告発、校長から謝罪の言葉を引き出すも、警察に連行されるという回が話題を呼んだ。

受験競争が激しさを増していたこの時代、競争から落ちこぼれた生徒は教師に反抗し、暴力におよぶ事件が急増する。これに対し学校側は厳しい管理をもって対処し、さらに反発を買うという悪循環を招く。この時期に、『トットちゃん』や「金八先生」が多くの人たちから支持されたのは、そうした子供たちをめぐる厳しい状況があった。おかげで『トットちゃん』は、一種の教育論としても読まれることになる。

学校だけでなく、大人たちの世界でも、不況のなか各企業は経営見直しから、戦力外と見なされた社員を閑職に追いやり、「窓ぎわ族」という言葉も生まれた。黒柳によれば、窓ぎわ族と呼ばれる人たちと、トモエ学園に入る前の学校で、どことなく疎外感を抱いていた自分が重なり合い、タイトルに「窓ぎわ」とつけたのだという。

『窓ぎわのトットちゃん』の刊行から36年。この間、経済状況の悪化から、各企業はリストラと称し、戦力から外れた人たちを窓ぎわどころか、退職に追い込むようになった。学校でも、落ちこぼれる以前に、経済的な事情から受験競争に参加すらできない子供たちも増え続けた。いまや世界中が経済競争に巻き込まれ、疎外が疎外を呼び、不寛容さが社会全体を覆っている。

いまなお『トットちゃん』が国内外で読み継がれているのは、刊行当時に問題とされていたことがほとんど解決されないまま、どんどん大きくなっているからでもあるのだろう。今後も疎外される人がいるかぎり、この本は人々の心に勇気を与えるものとして読まれ続けるに違いない。
(近藤正高)