HKの大河ドラマ「真田丸」では、きょう4月10日放送の第14回より「大坂編」が始まる。公式サイトによれば、第14回では、羽柴秀吉(小日向文世)が全国の大名に服従を求めるのに応じ、越後の上杉景勝(遠藤憲一)もやむなく上洛を決め、当時景勝の人質の身であった真田信繁(堺雅人)もこれに付き従うことになるという。

「真田丸」豊臣秀吉はなぜ「とよとみ『の』ひでよし」と名乗るのか
三谷幸喜原作・脚本・監督の映画「清須会議」(2013年)。秀吉役の大泉洋をはじめ、小日向文世(丹羽長秀)、鈴木京香(お市)、寺島進(黒田官兵衛)と「真田丸」とは一部キャストが重なる

史実では、上杉景勝が秀吉の要請を受けて上洛したのは、天正14年(1586)6月。その前年には、先週の「真田丸」で描かれた第一次上田合戦があり、一方で秀吉は四国を平定し、九州の大名らに停戦命令を出すのと前後して朝廷より関白に任じられている。先週の番組終わりの予告では、秀吉が「豊臣秀吉である」と自らを称するカットが出てきたが、秀吉が豊臣と名乗るようになったのは景勝上洛の半年後、天正14年12月のことだ。

「豊臣秀吉」という名の正しい読み方は?


ところで、予告では秀吉が「とよとみひでよし」ではなく「とよとみ『の』ひでよし」と名乗っていた。耳慣れないが、これが豊臣秀吉の名の本来の読み方である。ようするに平清盛を「たいらのきよもり」、源頼朝を「みなもとのよりとも」と読むのと同じだ。

そもそもなぜ「の」をつけるのか? それは豊臣が源、平、藤原などと同様、天皇から与えられる「姓」だからである。


江戸時代以前、公的な名前である姓と、自ら私称する「苗字(名字)」は明確に区別されていた(姓と苗字の違いについては、岡野友彦『源氏と日本国王』講談社現代新書にくわしい)。ゆえに秀吉が豊臣姓を賜わってからも、苗字は従前の「羽柴」のまま変わってはいない(「真田丸」公式サイトの相関図でも「豊臣家」ではなく「羽柴家」となっていることに注目)。

もっとも秀吉本人は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで織田信雄(信長の次男)と和議を結んで以降、自ら羽柴と名乗ることはなくなっていた。秀吉は、信雄が父・信長から継承した権力を奪取しようともくろみ、小牧・長久手の戦いの和議成立の翌年には、信雄を臣従させるにいたる。事実上の天下人となった秀吉からしてみれば、信長の重臣であった丹羽(長秀)と柴田(勝家)から一字ずつとった羽柴の苗字は、断ち切るべき過去そのものであったのだろう。

なお、秀吉は関白を任官された際に藤原姓を賜わっていたが、1年あまりで改姓したことになる。
ここには天下人となった以上、藤原という古い姓を継ぐことはなく、自ら新しい姓を立てて末代に名を残したいとの思いがあったようだ(池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社)。

その後、秀吉は羽柴や豊臣の名を諸大名に授け、賜姓(しせい)による擬制の一族づくりに励むようになる(相川司『真田信繁 戦国乱世の終焉』中央公論新社)。たとえば伊達政宗は羽柴姓を与えられているし、真田信繁もまた……おっと、これはドラマでも描かれそうだから、くわしくは書かないでおこう。

それにしても、豊臣秀吉の名前の読み方ひとつとってもこの凝りよう。大の歴史好きである脚本の三谷幸喜の面目躍如といえる。

名前といえば、秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)は、一般的に「禰々(ねね)」や「お禰」の名で知られるが、「真田丸」では「寧(ねい)」という呼称を採用している(演じるのは鈴木京香)。
実際、彼女の名前については、その実家である木下家の系図では「子為」と書いて「ねい」とされていることから、「ねい」説が有力らしい。木下家に伝わる家譜などでは、「ねい」に「寧」の字があてられていた(藤田達生『秀吉神話をくつがえす』講談社現代新書)。ドラマでの呼称・表記もこれらを踏まえたものだろう。

秀吉の「指」をめぐる三谷幸喜の冒険


三谷幸喜は「真田丸」以前に、秀吉の登場する作品として映画「清須会議」を手がけている(原作・脚本・監督、2013年)。このとき三谷は、秀吉の人物造形のためちょっとした冒険をしていた。ポイントは「指」だ。

じつは秀吉の右手には六本の指があった、という話がある。
ポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスはその著書『日本史』に、秀吉に会見した際の印象として《身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指(seis dedos)があった》と記している。ただし、私の参照した1977年刊の『日本史1 豊臣秀吉篇I』(松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社)の訳注は、《この記述はフロイスの報告書の信憑を疑わしめるほどの瑕瑾と言い得よう》とまともにとりあってはいない。これは、フロイスがすでにキリシタン弾圧を始めていた秀吉に対し嫌悪感に駆られるがあまり、彼を悪魔の化身として読者に印象づけようとして書かれたものではないか、というのだ。

「六本指」説の根拠としてはまた、秀吉と親しかった前田利家の晩年の回顧談『国祖遺言』の「太閤さまは、右の手おや指一つ多く六つ御座候」などといった記述があげられる。医師の篠田達明はこれら史料を踏まえて、秀吉の指が通常より多かったとしたら、どうしてそうなったのか推理している。興味のある方は、篠田著『モナ・リザは高脂血症だった―肖像画29枚のカルテ―』(新潮新書)で確認していただきたい。


いずれにせよ、無根拠ではないものの、確証されたとはいいがたいこの説を三谷幸喜は「清須会議」で果敢にも採用している。劇中、大泉洋演じる秀吉はずっと手袋をしているのだが、妻の寧(中谷美紀)と二人きりでいる場面で、一度だけそれを外す。そこでは特殊メイクで指が6本になっていた。まあ、これは映画だからできたのであって、より制約の多いテレビ、それもゴールデンタイムのNHKでやるのはおそらく無理なのではないか。

あだ名「猿」の由来は顔ではない?


秀吉の容貌については、猿に似ていたとよくいわれる。しかし有吉弘行ばりにあだ名をつける名人だった主君の信長は、秀吉を「禿鼠(はげねずみ)」と呼びこそすれ、「猿」と呼んだ確証はじつのところない。

秀吉は天下人となったのち、自らの神格化のため、母なかは懐に太陽が入って受胎する夢を見て、自分を日吉山王権現(ひえさんのうごんげん)の申し子として生んだという「日輪受胎説」を流布させた。
ここから猿というあだ名も、相貌が似ていたからというよりは、日吉神社の神獣が猿であることに由来するのではないかとも考えられている(前掲、『秀吉神話をくつがえす』)。

明治まで破られなかった秀吉の「移動距離」


秀吉は信長に仕える以前、針の行商をしていた経験などから、戦国武将としてはたぐいまれな情報収集能力、経済感覚を有していたとされる。情報収集能力の高さは、中国攻めのさなか、本能寺の変で信長が死んだとの情報をいち早く得て、急遽上方へと引き返し、仇である明智光秀を討ったことからもあきらかだ。

いわゆる「中国大返し」が成功を収めたのは、秀吉がカネの力をよく知っていたからでもある。この行軍の半ば、居城の一つである姫路城にたどり着くと、秀吉は城に蓄えていた兵糧米と軍資金を洗いざらい将兵たちに分配し、彼らをおおいに鼓舞させたという。戦う前に報奨金を先払いすることなど当時の常識ではありえないことであった(小和田哲男『NHKさかのぼり日本史7 戦国 富を制する者が天下を制す』NHK出版)。

「大坂編」を前に主演の堺雅人がインタビューで語ったところによれば、三谷幸喜はこのパートについてスタッフに「森繁久彌の社長シリーズだ」と説明したとか(「朝日新聞デジタル」2016年4月9日付)。「社長シリーズ」とは昭和のサラリーマン映画を代表するシリーズだ。ひょっとすると、「真田丸」では秀吉を経営者的な存在として描こうという思惑が三谷にはあるのかもしれない。

秀吉が真田信繁と出会ったのは、天下統一が最終段階に入り多忙をきわめた時期である。関白となった天正13年(1585)には、春に秀吉自ら紀伊へ出向いて雑賀(さいか)衆を討ち、秋には北陸に乗りこみ、越中の佐々成政を屈服させた。その後も天正15年には島津義久の征伐のため九州は薩摩・川内(せんだい)まで下向し、天正18年の小田原攻めを経て伊達政宗が服属すると、奥州(東北)仕置のために陸奥・会津まで足を延ばしている。

まさに東奔西走だが、これらはただの軍事遠征の域を超えて、中央と地方をより強固に結びつけるための政治的パフォーマンスという意味合いを多分に含んでいた。その移動距離は源頼朝をはるかにしのぐ。天皇を含む日本史上の為政者で、秀吉ほど境界的な場所までこつこつと足を運んだ例は前代未聞という。その後の徳川将軍の行動範囲は狭く、秀吉の記録が塗り替えられるのは、近代的な交通手段を得た明治天皇の地方巡幸まで待たねばならない(黒嶋敏『天下統一 秀吉から家康へ』講談社現代新書)。

そういえば、社長シリーズでは、森繁演じる社長が出張するたび珍道中を繰り広げるのがお約束だった。「真田丸」でも、秀吉の遠征に信繁が付き従い、社長シリーズの三木のり平や小林桂樹たちのように上司のわがままに手を焼いたりするのだろうか。となれば、三谷幸喜の喜劇的センスがますます発揮されそうだ。
(近藤正高)