池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》(河出書房新社)第2期の刊行がスタートした。
第13回(第2期第1回)配本は、第03巻『竹取物語 伊勢物語 堤中納言物語 土左日記 更級日記』

そうか、女の人ってこういう経緯でスピリチュアルにハマるのか『更級日記』『竹取物語』が凄すぎる
池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》03『竹取物語 伊勢物語 堤中納言物語 土左日記 更級日記』(河出書房新社)。解題=島内景二、月報=小川洋子+津島佑子、帯装画=清川あさみ。2,800円+税。

 この巻の収録作はこちら。
『竹取物語』(10世紀前半? 森見登美彦訳)
『伊勢物語』(10世紀。川上弘美訳)
『堤中納言物語』(13世紀? 中島京子訳)
・紀貫之『土左日記』(『土佐日記』とも。935? 堀江敏幸訳)
・菅原孝標女(たかすえのむすめ)『更級日記』(11世紀後半。江國香織訳)

平安時代の物語文学・日記文学から5篇。
こうやってみると平安時代って長い。
300年ある。
暴れん坊将軍吉宗の8代将軍就任の年から今年までの長さだ。

モードもスタイルもいろいろ


僕は『竹取物語』最終部の星新一訳(角川文庫Kindle)を『富士山』というアンソロジーに収録したことがある。
偶然だが、今回『竹取物語』を訳した森見登美彦さんの富士登山記を読めるのも、現在のところこのアンソロジーだけ。
そうか、女の人ってこういう経緯でスピリチュアルにハマるのか『更級日記』『竹取物語』が凄すぎる

『竹取物語』は特定のヒロインを擁した一貫性のあるストーリーを持つ。
いっぽう『堤中納言物語』は「虫めづる姫君」を含む10篇の短篇物語(と巻末の断章1篇)から成るコンピレイションで、各篇の原作者も成立時期もバラバラだと言われている。
『伊勢物語』はそのどちらでもなく、スナップショットのようなごく短い125の挿話から成り、各篇の主人公の同一性にこだわっていないが、全体を読むとひとりの人間の一生が書かれているようにも読めるという不思議な構造。


ふたつの「日記」も、スタイルはまるで正反対。
『更級日記』は、いま読むと自伝に思える。これは「日記」と言っても、日付のない回想体で書かれた「女の一生」。地方で育った幼少期から、上洛しての少女期、就職、結婚、夫との死別というふうに、約40年間のできごとを時間順に記述する。

いっぽう『土左日記』は日付が入ってるけど、男の作者が女になりすまして書いた以上、目下の言葉で言うと「ネタ」ということになる。
ざっくり言ってどの文化圏でも、ある時期までは、フィクションかノンフィクションかという近代的な区別が、近代ほどやかましくなかった。

貫之が任地である土佐から京に帰った3か月弱の旅を題材にしているので、カヴァーしている時間は『更級日記』のたったの160分の1だ。

このように、モードもスタイルもいろいろな平安文学だけど、ひとつだけ大きな共通点がある。

物語も日記も、「歌」の周りに結晶した


それは、歌(和歌)が作品の柱となっていること。
ここぞというときに和歌が出てくる。

そのもっとも極端なのが『伊勢物語』だ(僕はこれ、最初に石田譲二訳[角川ソフィア文庫Kindle]で読んだ)。
そうか、女の人ってこういう経緯でスピリチュアルにハマるのか『更級日記』『竹取物語』が凄すぎる

これは物語とは言っても、じっさいには、125の挿話(「段」)のすべてが詞書(ことばがき。特定の和歌が制作されたいきさつを説明した文章)である。

各段に1首から数首の和歌が、そのいきさつを説明する文章のあとに収録されている。
その多くが、恋愛関係にある(あるいは関係破綻後の)〈男〉と〈女〉のあいだの、心情の表明やかけひきのコミュニケーションに使われている。
恋愛以外でも、家族愛や友情、主従関係にまつわる歌をあつかった段もある。

使われている歌の多くは、物語成立のひとつ前の世紀に活躍した歌人・在原業平(880年歿)の作品だ。
そのため、『伊勢物語』の主人公は業平と呼ばれることが多いが、じつは作中では名を出さず〈男〉とだけ呼ばれる。
〈男〉のプロフィールやキャリアがけっこうバラバラなこともあって、すべてを同一人物の話として読むことは難しい。

それに業平ではない別の実在人物が主人公の段もあるし、地方出身者が主役の段もあるのだ。

業平は紀貫之・紀淑望(よしもち)による『古今和歌集』のふたつの序文で取り上げられた六歌仙のひとりだから、和歌の知名度は抜群。
そうか、女の人ってこういう経緯でスピリチュアルにハマるのか『更級日記』『竹取物語』が凄すぎる

つまり『伊勢物語』は業平をはじめとする和歌のヒット曲につけたオリジナルPV集ということになる。
PVといっても詞書だから、とにかく短い。1首につき10行に満たないものが多い。短ければ2行くらいか。

Vineで観ることができるPVくらいに考えるといい。

 ここまで歌主導ではないにしても、本巻収録作は「ここぞ」のところで歌が出てくる。ある意味、話の筋は歌に奉仕する2次的な位置を占めているといっても過言ではない。

和歌をどう現代語訳するか


 そういうわけで本巻でも、本全集第1巻『古事記』(レヴューは「『古事記』は「ジョジョ」4部のあのエピソードのルーツでもある? 話題の新訳を読んでみた」)、第2 巻『口訳万葉集 百人一首 新々百人一首』(レヴューは「「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」それが和歌だ(あいつのツイートじゃないか)」)に続いて、和歌の現代語訳に、現代の文学者がチャレンジしている。
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森見登美彦は訳者あとがきで、『竹取物語』作中の和歌を
〈「恋する男女が交わす、ちょっと恥ずかしいポエム」的なものをイメージして現代語訳した〉
と述べた。

かぎりなき思ひに焼けぬ皮衣袂かわきて今日こそは着め
(森見訳)僕の身を焦がすアツアツの恋心にも
     この火鼠の皮衣は焼けたりなんかしないのさ
     君と結ばれる今日は袂を涙で濡らすこともないしね

いっぽう『堤中納言物語』(#蜂飼耳訳が先般話題になった)を訳した中島京子は、
〈ひとつ、大きく決断したのは、挿入される歌を、現代短歌として三十一文字で訳すことだった〉
と言う。

いづこにか送りはせしと人問はば心はゆかぬ涙川まで
(中島訳)どちらまで送り届けたか問われたら涙川だと答えてほしい

たしかに和歌を現代語訳すると何倍にも長くなる。それは『伊勢物語』の川上弘美訳でもそうなのだが、なかでひとつ、思い切って逆に短くしたのがあり、驚いたので紹介する。

逢ふことは玉の緒ばかり思ほえてつらき心の長く見ゆらむ
(川上訳)逢うのは
     一瞬
     恨みは
     永遠

こえええええ!

さらに大胆な新訳


大胆な新訳といえば、第08巻の町田康抄訳『宇治拾遺物語』の思い切った書き足し(レヴューは「町田康版「こぶとり爺さん」がいろいろ反則すぎて腹が痛くなるほど笑ったああああっ」)、前回配本第11巻では山東京伝『通言総籬(つうげんそうまがき)』の訳者いとうせいこうによる『なんとなく、クリスタル』(河出文庫Kindle)ふうの註があった。
そうか、女の人ってこういう経緯でスピリチュアルにハマるのか『更級日記』『竹取物語』が凄すぎる

とりわけ大胆だったのが同じく第11巻に収録された為永春水『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』を、島本理生が複数キャラによる一人称の語りに変換したものだった(レヴューは「世之介が肉体的に交渉した女は3742人、男は725人。新訳『好色一代男』」)。

島本訳以上に大胆なものは出ないだろうと思ってたら、また驚いた。
堀江敏幸は『土左日記』(既存の訳でポピュラーなのは西山秀人訳角川ソフィア文庫《ビギナーズ・クラシックス》Kindleか)に、紀貫之による架空の序文とあとがきをつけ、さらに本文のなかにも、括弧書きで貫之の自己言及的なコメントを創作・挿入したのだ。
「ネカマ」で女を演じる『土左日記』に、男丸出しの貫之の地声が割りこんできた。
そうか、女の人ってこういう経緯でスピリチュアルにハマるのか『更級日記』『竹取物語』が凄すぎる

これって映画のDVDやブルーレイを監督の副音声モードで観ているようなものだ。
しかも本体(ネカマ)部分はすべてひらがな(女の文字)で訳してあり、いっぽう訳者が創作した貫之はフランスの詩人・批評家ポール・ヴァレリーもかくやと思わせる近代的自我でもって自分語りをやらかす。

文学の世界には、こういうコラボレイション的な二次創作を喩えて言う「パランプセスト」なんていう言葉もある。
こういう書き足しで新しいコンテンツが誕生するのを見ると、古典というのは使っても減らない資源だなあと思う。堀江訳『土左日記』は2016年の「新作」といっていいのではないか。

女の人はどういう経緯でスピリチュアルにハマるのか


じつは今回読んでいちばんおもしろかったのは『更級日記』だった。これは自分でも意外だった。

『竹取物語』『堤中納言物語』がおもしろいのは知ってた。なんといっても『竹取物語』は『かぐや姫の物語』の原作だ。そして『堤中納言物語』所収「虫めづる姫君」は『風の谷のナウシカ』の原作だ。あれ違ったっけ?
そうか、女の人ってこういう経緯でスピリチュアルにハマるのか『更級日記』『竹取物語』が凄すぎる

『更級日記』だって、序盤の『源氏物語』全巻読みたい!とか言ってるオタク女子っぷりがおもしろいのは原岡文子訳(角川ソフィア文庫Kindle)を読んでわかってたんだけど、江國香織訳で『更級日記』を読んでみて、『更級日記』はむしろ終盤が読みどころだと感じた。
そうか、女の人ってこういう経緯でスピリチュアルにハマるのか『更級日記』『竹取物語』が凄すぎる


なぜなら、
「そうか! 女の人はこんな感じでスピリチュアルにハマるのか!」
って、わかっちゃったのだった。

女がスピリチュアルだのパワースポット巡りだのお守り的なグッズだのにハマることにたいして、一般に男の人はきわめて冷淡で無理解で(ただし観光業界に身を置く男を除く)、なんなら女の人のそういう部分を「ケッ」とか思っていることが多い(もちろんそういう同性を嫌いな女の人もいる)。僕も長年そっち側にいた。

江國訳で読んだからなのか、それとも自分がものわかりよくなっちゃったのかは知らないが、今回、老境の菅原孝標女が(平安時代の基準なら40代後半は老境と言っていいと思う)おセンチな気分で神仏に親しんでいくのを読みながら、僕は菅原孝標女のことがすっかり好きになってしまった。

江國訳『更級日記』を読むと、菅原孝標女という人があまりに率直に心を開くものだから、僕のほうも彼女にたいして
「いろいろあったね……よくやったよ貴女は……」
とねぎらいの言葉くらいかけたくなる。

ついでに言うと、こういうふうに自分の考えや好みが変わる、なんならブレる、からこそ生きた甲斐がある、とまで思っちゃった。
「彼女が最近パワースポット巡りにハマりだして、なんかバカじゃねえの?」
とか考えてるご同輩の殿方、騙されたと思って『更級日記』を読んでみてほしい。俺ら男の都合だけで世界を回しちゃまずいぜ兄弟。

次回は第14回(第2期第2回)配本、第15巻『谷崎潤一郎』で会いましょう。
そうか、女の人ってこういう経緯でスピリチュアルにハマるのか『更級日記』『竹取物語』が凄すぎる

(千野帽子)