非常に使い勝手が良い「MC」


とにかく、よく観る。ヒロミをだ。まさに、リバイバル。

『美女たちの日曜日』(テレビ朝日)MC席に着くヒロミには懐かしさを覚えたものだが、その一方で「MCという立ち位置に乗り気じゃない」という彼のテンションを某テレビ関係者から聞いたことがある。自身が面倒見たボキャブラ芸人が主流になりつつあるテレビ界、あえてMC席を目指さず肩の力を抜いてタレント業に臨む姿勢は間違ってない。

そう。かつてのヒロミは、制作側からすると非常に使い勝手が良い「MC」であった。仕事は堅実だし、企画意図は確実に理解してくれるし、決して番組を脱線させない。そしてある時期を境にテレビから姿を消し、10年以上が経とうとしていた。


なるほど。自分で書いてて腑に落ちた。これだけの潜伏期間があれば、知らない人がいても仕方ないだろう。そもそも、ヒロミは毒舌ではない。かつてヒロミを評する際、頻繁に用いられていたのは「バランス感覚」というワードであった。どのタレントともフランクに話せ、派閥を超えた絡みができ、丁度良い若さがあった(『発掘! あるある大事典』司会を降板したのは39歳)。


そして、大復活。リバイバルしたヒロミは、「有吉や(坂上)忍が出られるなら、俺も出られると思った」を再登場の理由として頻繁に口にしている。“毒舌枠”への新規参入を、高らかに宣言した形か。
これ、個人的に物凄い違和感がある。なぜなら、かつてのヒロミは「マチャアキ→薬丸裕英」ラインに収まる芸能人として認識されていたはずだから。
そもそもヒロミは毒舌ではない。そこを前提に話を進めるメディアは記憶を捏造している
『時遊人 -ヒロミ流 遊びの教本-』ヒロミ/Bbmfマガジン
画像は、2009年に出版されたヒロミの著書。“遊び”に対する熱い想いが綴られており、「所ジョージや岩城滉一を目指している」と評されていた頃のヒロミを思い出す。

ここで、コラムニスト・ナンシー関(故人)が10年以上前に書いた文章を引用したい。

「何よりヒロミが間違っているのは、普通のバラエティーに出たとき、バラエティータレントが担当すべき仕事(場を盛り上げるために自らのテンションを上げたり、様式としてのボケやツッコミをこなすことなど)を、もう自分は免除されているというカン違いをしているところだ。誰が免除したというのだ」(『ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100』より)
思い返すと彼女、ヒロミと中山秀征には特に筆が厳しかった。しかし、世はまさにダウンタウン全盛期。「面白い/面白くない」のラインは今より遥かにシビアで、上記のナンシー嬢による激文は当時の空気と決して大差ない。若きヒロミが重宝されていたのは「ソツの無さ」が理由であり、「毒舌」を放つほどのリスクは放棄していたと記憶している。(強いて言えば、ヒロミに「やんちゃ」のテイストはあった)

問題なのは、メディア側


だが、ヒロミは「毒舌」を自称して再登場した。
結果、効果は抜群。毒舌というイメージは、見事に彼の“手形”として機能している。「かつてテレビでムチャクチャしてた先達が今の時代に舞い戻ってきた」的な空気で出迎えられている。物凄く、クレバーだと思う。
問題なのは、メディア側。特に、ネットニュース系。
褒めるにしろ貶すにしろ、芯を捉えていないケースが多過ぎる。「ヒロミは毒舌」を前提に話を進めているだけに、西にある目的地をないがしろに東に向かって歩き出してしまってる。「ヒロミと有吉は共演NG」とか「坂上忍とヒロミの違い」とか、これらのロジックは偶像相手に相撲を取ってしまった結果だ。世相に流され、自身の記憶をねつ造してしまっている。

正直、ヒロミには注目している。面白さが増したとは感じないが、今は決してそれのみが重視される時代でもない。
シーズンが違う。冷凍保存されたかのごとき先人が変容したテレビ界にお邪魔し、多方面から賛否を巻き起こす存在となった。重要度は、10年前より遥かに跳ね上がっていると確信している。
またリアルタイムで併走していた世代としては、無意識に彼を意識していることも自覚している。ヒロミの重宝ぶりは、我々世代(記者は1978年生まれ)にアピールしているのだろう。

ただ、何度も言うが、物事をこねくり回して語るメディア側が淡白にカテゴライズ分けしてる事実はいかがなものか。安易すぎるのだ。実態は全く違うのに、「ヘアバンドだから」って理由のみでハードロックとして日本へ紹介されたハノイ・ロックスを思い出してしまう。
(寺西ジャジューカ)