前田日明の半生を描いた書籍『格闘者』の出版を記念して開催されたトークイベント、「前田日明の水曜会」!
話題はいよいよ、前田日明のデビュー以降に差し掛かります。どうぞ、ご覧ください。

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――1978年にデビュー戦で、相手は山本小鉄さん。なんで、最初が小鉄さんなんですか?
前田 当時、自分の半年後輩で平田とか、辞めちゃった原園とか、ヒロ斎藤らがいて。彼らがデビューする時は小林邦昭さんや栗栖正伸さんといった先輩が相手してるのに、自分の相手は山本さん。後々、山本さんに聞いたら「みんな『嫌だ』って言って、俺がやるしかなかった」って。
――そうなんですか。
塩澤 その時に「プロレスはあらかじめ勝ち負けというか落とし所を決めてやるもんだ」と初めて打ち明けたのが、佐山なんですね。

前田 そうです。その時、佐山さんは「でも猪木さんは、行く行くはショープロレスじゃない本物の格闘技をやろうと思ってるんだよ。だから、藤原さんとグラウンドの練習しているのは正しいんだよ。いつかそういう事ができるようになるから、気を落とさずに頑張れ」ってことを、俺に言ったんですね。
塩澤 猪木さんの中に「強くなくちゃいけないんだ」というのがあったと思うんですよ。もう一つは、弱い人を相手にしても相手を強く見せる演技力がなくちゃいけない。
でも前田さんは、「弱い奴を強く見せる」はおかしいんじゃないかと。プロレスがどうこうの前に、道義的におかしいんじゃないかと。それが、彼を“猪木の後継者”にさせなかった。それで、独自のUWFというスタイルを藤原さんと一緒に作り出していったという。そこのところで、猪木さんと別れざるをえなかった。
前田日明を語ることは喜びであり、キナ臭い

――そういう意味で、新日の中で藤原さんは最初から特別な存在だったわけですか?
前田 藤原さんは最初、俺のことがすごい嫌いだったんですね。
入門して、自分は「モハメッド・アリの道場に行くために体を作る」というつもりでいたんです。藤原さんからすると、そういう態度が好きじゃない。自分としては、せっかくプロレスの道場にいるんだから関節技とか寝技の技術を身に付けようと思って、藤原さんのところに行き「お願いします」って言うんですけど「向こう行け、シッシッ」って、全然相手にしてくれない。ずーっと相手にしてくんなくて、ある日、猪木さんが「藤原、そんなこと言ってやんなよ。じゃあ前田、俺が相手してやるよ」って。それで猪木さんにガーッて行って、それで藤原さんに認められ「おまえ面白い奴だな、明日から教えてやるよ」って言ってもらえた。

塩澤 補足すると、猪木が「俺が相手してやるよ」と言った時「何やってもいいんですか?」って聞き返したの。それで、彼としては「空手しかやったことない奴がプロレスラーに勝つには、目潰しと金的攻撃しかない」と。そして、そこで両方やったらしい。そしたら金的の方は外したんだけど、目潰しの方が入って大騒ぎになった。で、周りから取り押さえられ、袋叩きにあったらしいんだけど、それを藤原さんが見てた。「こいつは根性がある」と。
それは藤原さんが個人的に「あいつは面白い」っていうのもあったんだろうけど、猪木と小鉄さんたちが相談したんじゃないかと思うんですよ。「ちゃんとしたプロレスを教えるにはどうしたらいいか」って。
――で、藤原さんにそう仕向けたって?
塩澤 う~ん、そうじゃないかなぁって。何の証拠も無いんだけど、藤原さんが前田さんのスパーリングの相手をしてくれるようになった背景には、新日本プロレス自体が「どう、前田日明を育てるか」と考えてた気がしてしょうがないんですけどね。
前田 う~ん、そういうのは無かったと思うんですけどね。当時、藤原さんってすごい浮いてたんですよ。

――テレビ観ながらでも、そういう感じは伝わってきました。
前田 猪木―ルスカ戦の時に、ルスカが道場に練習しに来たんです。その時、「誰かルスカの相手をやってやれ」ってなって藤原さんが手を挙げたんです。で、藤原さんがルスカにやられるかと思ったら逆で、ルスカがボロ雑巾のように手を極められ足を極められ。藤原さんにしたら「プロレス界の名誉を守って会社の名誉を守ったのに、なんでもっと上の方の試合に出してくれないんだ」という気持ちはあったと思うんだよね。実際は俺の方が強いはずなのに、って。誰も藤原さんをコントロールできなかったんです。みんな、藤原さんに対して腫れ物を触るような感じだったんです。普通に話ができるのは、猪木さんと小鉄さんくらい。でも、そういう藤原さんの佇まいってウチの親父にそっくりで。仕種とか、周りに発散する気とか。
――それは、藤原さんに言ったことはあるんですか?
前田 あります。「そうか」って、笑ってましたけど。
前田日明を語ることは喜びであり、キナ臭い

――その頃、前田さんはトンパチって言われてたんでしょ?
前田 猪木さんとやってから、俺はトンパチと言われるようになりました。
――塩澤さんは前田さんのどういう部分で「追いかけたいなぁ」と思ったんでしょうか?
塩澤 ビターゼ・タリエルとやったのが、1994年? その試合の一週間くらい前に、初めて会ったんですよ。それは篠原勝之さん、クマさんの本を作って。そしたら「あとがきを書いてもらいたい人がいる。前田日明だ。俺が言ってると伝えれば、必ず会って話聞かせてくれるはずだから」って。だから電話して、南平台の当時のリングスの事務所に行き前田さんに喋ってもらったんだけど、その時「よく本を読んでて、凄い人だな」と思ったの。その後、百瀬博教の本を書いて「前田っていうのがいるんだよ」「いや、知ってますよ」って話になって。それで色んないきさつがあって『U.W.F.戦史』っていう本を書いて。これを書いた時に、どうしても解けない謎が「なんで前田は、たった一人でリングスを旗揚げすることになったのか?」。色んな本を読んで情況証拠はいっぱいあるけど、決定的なことは何もわかんない。だから、僕は彼に取材を申し込んだんです。それで総合格闘技を確立していくプロセスの中でプロレスラーたちが脱落し、最後に残ったのが前田日明一人……っていうのが、やっと本人が言ったことと情況証拠を集めた時にわかったんですね。3つに分かれるんだけど、前田は一人で行かざるをえなかった。ちょこっとプロレスラーになるいきさつとかも、聞かせてもらったんだよね。そのキーポイントになるのは、カール・ゴッチ。日本のプロレスの土台を作りながら、段々みんなに阻害されていった人というのかな。この人が教えたものが、前田日明の中である形で生き残ったっていう。そして、それが格闘技の動きになっていった。それはちゃんとした本として残しておく価値がある。だから、書いてみたいなって。お金いくらくれたって、こういう厚い本はなかなか書けないですよ。自分の中に「この人のことを表現したいな」っていうきっかけがないと。


ハッキリ言ってこの時間帯、かなり危うい空気になっています。それを象徴するのは、不自然なほどに口を閉ざしたままの井上編集長の表情。
前田日明を語ることは喜びであり、キナ臭い

このくすぶるマグマが噴出した模様は、PART3にて……。
(寺西ジャジューカ)