NHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」の今週火曜(3月4日)放送の第128回では、大阪大空襲のさなか、ヒロイン・め以子(杏)たちが地下鉄の心斎橋駅構内に逃げこみ、さらにはホームに入ってきた電車に乗ってより安全な梅田方面へ避難するという場面があった。そもそもめ以子が地下鉄駅に避難したのは、夫で大阪市職員として地下鉄建設にかかわった悠太郎(東出昌大)から渡された手紙に「地下鉄に逃げれば安全だ」と書かれていたからだ。


このエピソードは、実話にもとづくものである。1945年3月13日夜から翌日未明にかけての米軍による大阪大空襲(第1次)の際、街が火に包まれるなか、大阪市営地下鉄の心斎橋駅に避難してきた人々を救うべく、電車が梅田方面や天王寺方面へ運行されたというのだ。

もっとも、空襲下に地下鉄を走った救援電車について公式な記録は一切残っていない。というのも、戦時中の地下鉄は軍事輸送に使われることも多く、その運行ダイヤや職員の勤労内容などは「機密扱い」の対象であり、それら事業資料は戦争が終わると、アメリカをはじめ連合軍からの戦争責任の追及を恐れてすべて処分されてしまったからだ。これ以降、救援電車の話はあくまで噂レベルで、人づてに語られるにとどまっていた。

それがあらためて世間に注目されることになったのは1997年、「朝日新聞」に京都大学名誉教授の村松繁(免疫学。
当時64歳)が空襲下での自らの体験を投書、掲載(3月11日付「声」欄)されたことがきっかけだった。

投書によれば、市街を周囲から中心へと渦巻き状に爆撃が続けられるなかで、退路を断たれた被災者の多くは中心部に逃げざるをえず、村松が心斎橋にたどり着いたときには周囲は完全に火の海であったという。そのとき地下鉄のシャッターが開き、村松たち被災者は駅員から「早く入りなさい」とホームに誘導され、ほどなくしてホームに入ってきた電車に乗り無事に梅田へ避難することができたのだった。村松は投書を、《あの大惨事に際して、当時の地下鉄関係者の冷静で適切な措置には、今もって感謝と敬服の念でいっぱいである》と結んでいる。

この投書に触発され、大阪市交通局の職員で組織される大阪交通労働組合は、地下鉄を含む市営交通が空襲で受けた影響について公営交通研究所に調査を依頼、経験者の証言や数少ない資料によって事実を解明することにした。同時に「毎日新聞」などを通じて情報を募った。
調査を通じてあきらかになったことは、翌98年、労組の機関紙「大交」に「大阪大空襲の証言と資料が語る埋もれた史実」と題する連載にて発表(のち公営交通研究所発行の冊子『大阪大空襲と市営交通事業』に再録)されている。同時期には、NHK総合テレビでも「大阪大空襲の夜 地下鉄は走った」というドキュメンタリー番組が放映され、救援電車の話は広く世間に知られることになった。

「大交」の記事ではたとえば、戦時中、四ツ橋に下宿していた女性(証言当時73歳)の証言として、次のような話が紹介されている。

下宿で空襲に遭った女性は、御堂筋(みどうすじ)方面へと避難した。火の粉が着ている衣服に振りかかるなか、やっとのことでデパートの大丸心斎橋店の前まで来たものの、そこでもまた火の粉と熱風が渦巻いており危険だった。このとき、憲兵の誘導で大丸前の地下鉄入口から心斎橋駅構内に入った彼女は、やはり入線してきた地下鉄に乗って梅田駅まで行き、そこから京都経由で奈良の叔母宅に落ち着いたという。


べつの女性(証言当時70歳)は、電車にこそ乗らなかったものの、地下鉄の大国町駅構内に逃げこむことができた。その証言によれば、周りを火に囲まれ、一緒に自宅から避難してきた母親と「もうあかんね」と顔を見合わせたとき、煙のなかから「命が惜しかったら地下鉄へ入れ!!」と何度か呼びかける声を聞いたのだという。声のほうへ走っていくと、そこは駅に降りる階段だった。

《地下鉄に逃げ込むなんて思いも寄らなかったけれど、もうけむたくて熱くて二、三十人の人となだれこみました。―中略―なだれ込んだ最後の人の頭と肩が燃えていました。―中略―切符売場に出ると何百人かの人達が逃げのびていました。
その広場で大勢の人ごみに入って初めて助かったな、と思いました》
(「大交」1998年3月15日付)

しかし、50人近い人から証言を得てもなお解き明かせない謎が残った。それは、避難民が乗車した電車の時間である。調査により、始発電車の出る午前5時半前後にもっとも多くの人が避難していることがわかったものの、それよりも早い午前3時台、4時台に乗車したと証言する人も数人いたのだ。

通常では電車が走るための電力は、終電が出たあと止めることになっていた。それでも電車を走らせるとするなら、あらためて送電する必要があり容易ではない。だから、始発前に電車が走ることはちょっと考えられないのではないか、という説が当初は有力であった。


ところが、13日夜から14日未明にかけて地下鉄に電気を送る心斎橋変電所に勤務していた大阪市電気局(現在の交通局)の元職員の証言から、《特別な指示があり、あの日は電車を動かす電気を終電後も送り続けていた》事実が判明した(「大交」1998年3月25日付)。だとすれば、少なくとも空襲のあった当日は終夜、地下鉄を電車が走れる状態だったことになる。

それでも空襲当日、午前3~4時台に運行を指示したり、電車を運転したという人を探し当てることはできなかった。ただし一つの可能性として、始発直前、5時20分頃には職員輸送用に「お送り電車」を走らせるので、被災者を見るに見かねた職員が駅に入れ、乗車させたということは考えられるようだ。「朝日新聞・関西版」2009年12月26日付の記事には、《当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか》との公営交通研究所の担当者の談話が載っている。

ここまで読んで、「ごちそうさん」のくだんの回を見た人は、ちょっと話が違うと思うかもしれない。
そう、村松繁や「大交」で紹介された証言者らは、いずれも駅員なり誰かに誘導されて地下鉄に避難したと語っているからだ。それに対しドラマでは、め以子が駅に行ったとき、構内への入口は鉄格子で閉鎖されており、それを駅員との押し問答の末(冒頭にあげた夫の手紙を見せながら)ようやく中に入れてもらうことができたのだった。

実際に、空襲時に地下鉄の駅へ逃げこもうとしたものの、構内への扉が閉まっていたとの証言も少なくなかったようだ。また、空襲当時、国民学校(小学校)5年生だったある男性は、大国町の駅まで避難したときのことを次のように記している。

《「地下鉄や、地下鉄しかない」。大人たちに続いて私たちも、直ぐ傍らの地下鉄の階段(今もある)を降りた。鉄格子はしっかりと閉まっていた。「規則で開けられない」と言い張る地下鉄職員に、大人たちは怒声と迫力で中から扉を開けさせた》(藤田道也「大阪大空襲で地下鉄に避難し助かる」、福山琢磨編『孫たちへの証言 第11集』

そうやって駅構内に避難した人々は、プラットホームの上に所狭しと腰を下ろしたり横になったりして一夜を明かしたという。前出の女性は、やはり大国町駅付近で誰かから「地下鉄へ入れ!!」と言われて助かったと証言していたが、それはきっとこのような経緯で駅が開放されたあとのことだったのだろう。

それにしても、地下鉄職員が言う「規則」とは何だったのか。じつは戦時下の日本では、空襲時に地下鉄に避難することは禁じられていたのだ。政府発行の『時局防空必携』昭和18(1943)年8月改訂にも「地下鉄道内への避難は許さぬ」との条項があった。その理由としては、いくら地下鉄のトンネルが頑丈でも重たい爆弾が直撃すればひとたまりもないこと、また避難民が殺到して二次災害が発生することへの懸念があげられる。だが、それ以上に、「地下鉄は非常時であればあるほど重要な使命を果たすべきものである。だから空襲時に地下鉄を避難所にして、重要な人や資材を運ぶという使命を失わせることは許されない」との考えが為政者側にはあったようだ(中川浩一『地下鉄の文化史』)。いまの目から見れば、避難してきた人たちを救うことよりも重要な使命などあるのだろうか……と思ってしまうが。

イギリス・ロンドンでは、第二次世界大戦中のナチスドイツからの空襲時に、地下鉄が市民の避難所として夜間限定ながら開放され、空襲の長期化にともないプラットホームの一角に診療所や給食施設が置かれたとの記録も残っている(中川、前掲書)。たしかに戦中の大阪や東京の地下鉄路線は、世界初の地下鉄であるロンドンよりもはるかに短かったとはいえ、上記のような記録を読むにつけ、彼我のあまりの違いに唖然とさせられる。

それでも大阪大空襲の夜、地下鉄のいくつかの駅は開放され、人々を救援する電車も運行された。はたしてそれが、駅員の機転や厚意により開けられたものなのか、それとも押し寄せる人々を前になし崩し的に開かれたものなのかはわからないが(おそらくそのどちらのケースもあったはずだ)、いずれにせよ、地下鉄によって大勢の人の命が救われたのはまぎれもない事実である。
(近藤正高)