10月14日は「鉄道の日」である。鉄道といえば、以前エキレビ!でも紹介した『週刊朝日百科 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』全30冊(朝日新聞出版)が先ごろ完結した。
その最終号ではモノレール、新交通システム、鋼索鉄道(ケーブルカー)がとりあげられている。

1本のレールを走るモノレールには、レールをまたぐ跨座式と、レールにぶら下がる懸垂式と2種類あるが、後者のほうが歴史は古い。19世紀のイギリスで、人の背丈ほどの高さにあるレールに荷物をぶら提げて、それを人や馬に引かせたのがモノレールのルーツという。動力はやがて電気へと変わり、20世紀に入るとドイツで実用化される。日本初のモノレールも懸垂式で、昭和初めの1928年、大阪の交通電気博覧会にお目見えしたものの、当時の鉄道省(現・国土交通省)から営業認可は下りなかった。日本における営業路線第1号は、1957年に東京都交通局が開業した上野動物園の懸垂式モノレールである。
これと前後して、スイス(拠点は西ドイツ)のアルヴェーグ社が跨座式モノレールの開発に着手する。日本でも日立製作所が同社と提携して開発を進め、1962年には名鉄の犬山モノレール(惜しくも2008年に廃止)が、そして1964年には羽田空港と都心を結ぶ東京モノレールが開業した。その後この技術に日本独自の規格が盛りこまれ、大阪モノレール(1990年開業)など新たな路線がつくられていくことになる。

さて、アメリカでは日本よりも先にアルヴェーグ社の技術が導入されている。同社とモノレールを共同開発し、それ以降も国内での技術をリードしてきたのは、何とあのディズニーだという。カリフォルニア州アナハイムにあるディズニーランドでは、開園から4年後の1959年にモノレールが園内を走るようになった。
ディズニーランドをつくったウォルト・ディズニーは、その計画の早い段階から未来の乗り物としてモノレールをパークの目玉に据えていたようだ。計画当時、ヨーロッパを視察したウォルトは西ドイツで実験中だったアルヴェーグ社のモノレールと出会い、心を惹かれたという。

有馬哲夫『ディズニーランドの秘密』によれば、そもそもディズニーランドは、アメリカの西部開拓時代の風景を再現し、そのなかを蒸気機関車や蒸気船が走るといった「交通博物館」のようなものとして構想されたという。これというのも、ウォルト・ディズニーという人は大の鉄道マニアだったからだ。彼がどれほど鉄道が好きだったか、同書にはたとえばこんなエピソードが紹介されている。それは1946年にシカゴで開催された鉄道博覧会へ、ディズニー・スタジオの幹部アニメーターだったウォード・キンボールとともに列車で出かけたときのこと――。


《列車がアリゾナ州のウィンスローに着くとウォルトを有頂天にすることが待っていました。機関士がウォルトとキンボールを機関室に招き入れたのです。(中略)汽笛を鳴らしてもいいといわれたので、ウォルトは小さな子供のように、何度も紐を引っ張りました。短く鳴らしたり、長く音が尾を引くように鳴らしたり、いろいろな鳴らし方をしました。(中略)キンボールによると、ウォルトはもう恍惚として、頬がだらしなく緩みっぱなしで、視線は空中をさまよっていたそうです》

このあと、鉄道博覧会の会場に到着した彼らは、機関車のパレードを見たり実際に運転してみたり、さらに、催しものとして行なわれた鉄道に関する歴史的名場面をベースにした劇にもコスチュームを着て参加したという(って、どんな格好をしたんだろうか)。それはウォルトにとって夢のような体験であり、帰宅すると妻に「あれはいままでの人生で一番楽しかった」と漏らしたほどだった。
ちなみに、キンボールもウォルトに劣らない鉄道マニアで、あるとき砂漠に打ち捨てられていた蒸気機関車を安価で入手し、これを修理して自宅の庭に走らせていた。ウォルトはディズニーランドの計画中、キンボールに何度もその機関車を譲ってくれるよう頼んだものの、結局それはかなわなかったとか。

とはいえ、ウォルトやキンボールは単に、モノとしての機関車が好きだったというわけではない。彼らの鉄道好きは、一族の歴史や自身の生い立ちに由来している。ウォルトについていえば、貧しいアイルランド移民だった彼の祖父も父親も、西部に向かって大陸横断鉄道が延びる時代を背景にアメリカの各地を転々とした。ウォルトが生まれたのはシカゴだが、その後、ミズーリ州のマーセリンという町に一家で引っ越している。
父・エライアスが、シカゴ~カンザスシティ間に鉄道が通るという情報を聞きつけ、その沿線に土地と家を購入したからだ。ウォルトは少年時代の多くをすごしたこの町で、よく線路に耳をつけて汽車が近づいてくる音を聞いたという。

ウォルトがテーマパークをつくりたいという夢を抱くようになったのは、アニメーション史上初のカラー長編映画『白雪姫』(1937年)の大成功ののち、カリフォルニア州バーバンクに新たなスタジオを建てたころだった。この夢は第二次世界大戦を挟んで実現に向けて動き出す。当初の構想では、スタジオに隣接するバーバンクの市有地を取得して、そこを「ミッキーマウス・パーク」と名づけた公園用地にあてようとした。当時よりユニヴァーサルなどハリウッド大手の映画スタジオは、有料で一般向けにスタジオ・ツアーを行なっていたが、「ミッキーマウス・パーク」はこれに博覧会・展示場・アトラクションなどの要素を加え、さらにそれらを鉄道を結ぼうとした。
鉄道を軸に据えたことこそ、ウォルトのテーマパークと、後年のユニヴァーサル・スタジオなどのような「映画村」的テーマパークとの決定的な違いであった。

結局この構想は、バーバンク市議会で市有地の譲渡が否決されたため立ち消えとなる。それでも新たにカリフォルニア州のアナハイムに土地を取得し、1954年にはディズニーランドの建設にこぎつけ、翌年オープンするにいたった。ウォルトは、ディズニーランドのオープニング・スピーチで《年配の人たちは過去の優しい思い出をもう一度経験し……若者は未来へのチャレンジとそれが約束してくれるものを経験するでしょう》と語っている。その言葉どおり、ディズニーランドではアメリカの古きよき時代のパノラマ的風景が再現され、そのなかを蒸気機関車――この鉄道は、ウォルトの育った町を通っていた路線の名前をとり「サンタフェ鉄道」と名づけられた(のちにディズニーランド鉄道と改称)――が一周し、各エリアを結んだ。それとともに未来へといざなうモノレールのような乗り物も導入された。アメリカ国内で万国博覧会が開かれるたび、企業パビリオンをプロデュースしては科学技術のすばらしさを伝え、それがもたらす明るい未来を提示してきたウォルトの真骨頂であった。

ところで、早稲田大学の教授(専門はメディア論)である本書の著者は、以前より『ディズニーの魔法』などのディズニー研究本を上梓するいっぽうで、『日本テレビとCIA』『原発・正力・CIA』といった、テレビや原子力発電がアメリカから日本へ導入される過程を極秘資料から解き明かした著作でも知られる。ふたつのテーマは一見かけ離れているように思われるが、まったく無関係というわけではない。

ひとつ例をあげるなら、ディズニーは1955年、ときのアイゼンハワー政権から、原子力の平和利用について自国や同盟国の国民にわかりやすく説明するテレビ番組の製作依頼を受けた。この番組は「アワ・フレンド・ジ・アトム」と題して翌年放映され、日本でも「わが友原子力」という邦題で日本テレビが放送している。米大統領アイゼンハワーはこれより前、1953年に、それまで兵器として使われていた原子力を、人類の平和と繁栄のために有効な道具(すなわち原子力発電)に転換し、この技術を世界各国に提供すると宣言していた。日本もこのアメリカの国策に乗って原発の導入を決める。それを主導したのは、日本テレビの設立者であり読売新聞社主にして、初代科学技術庁長官を務めた正力松太郎であった。

ウォルト・ディズニーは開拓時代のアメリカにノスタルジーを抱くとともに、科学技術の進歩による明るい未来の実現を信じて疑わなかった。彼にとって原子力は、モノレールと同様に未来の象徴だったのだろう。開園当初のディズニーランドにも、そうした彼の理想が色濃く反映されていた。なお、『ディズニーランドの秘密』には福島第一原発での事故への言及はないが、最近文庫化された『日本テレビとCIA』では、巻頭に文庫版へのまえがきとして「原発導入と正力松太郎」という一文が付されている。興味のある方はぜひ本書とあわせて読んでほしい。(近藤正高)