“カシアス島田”こと島田紳助がプロデュースした伝説のバラエティ『クイズ!ヘキサゴンII』(フジテレビ系)が、放送開始から10年を迎えた。“おバカタレント”という言葉と文化を生み出し、出演陣である“ヘキサゴンファミリー”は軒並みブレーク。

2008年には番組で誕生した羞恥心とPaboが『NHK紅白歌合戦』に出場するなど、お祭り騒ぎのような状態だった。番組は11年、紳助の芸能界引退とともに幕引きとなったが、ファミリーの一員だった木下優樹菜はその後ママタレントして活躍を続け、上地雄輔はタレント活動と並行し、ソロアーティストとして『紅白』にも出場した。

 しかし一方で、スタイリスト男性との結婚後はとんと姿を見せなくなった神戸蘭子、事務所とのトラブルにより番組を途中降板となった野久保直樹など、『ヘキサゴン』終焉とともに“消えた”タレントも数多く存在する。そして『ヘキサゴン』とともにスターダムにのし上がり、紳助引退と同時に行く末を見失ってしまったのが、新選組リアンだ。結成こそ日本テレビの『人生が変わる1分間の深イイ話』の企画からだったが、その後はフジの『ヘキサゴン』にも出演。そのシンデレラ・ストーリーを、元メンバーの森公平が振り返った。


――森さんは09年、『深イイ話』で行われた、京都市を中心とする地域密着型アイドルの開発プロジェクトに合格し、芸能界デビューを果たしました。

森公平氏(以下、森) オーディションに合格した日から、人生の全てが変わりました。オーディションの時、ホストクラブでバイトしていたことを正直に話したら、紳助さんに「お前、隠さないなんてエライな」と言われて合格したんですが、裏話をすると、実は僕、書類審査で落とされていたそうなんです。ところが紳助さんの自宅に置かれていた書類を娘さんが見て、「オトン、この子は採らなアカンで」と言ってくれた……と聞きました。

 合格の次の日には、いきなり東京のスタジオで収録が行われたんですが、そこにはテレビで見たことある人たちがたくさんいる……という。芸能界にまったく興味のなかったいち大学生が、街を歩いていると「森さんですよね?」と声を掛けられるんです。
「俺、芸能人だ!」と驚きました。生活も一変。一言で言うと、自由がなくなりました。当時の住まいは、当時の所属事務所の社長の自宅で、メンバー5人で共同生活を送っていたんです。たまの休みの日に遊びに行くと、社長が「遊んでる場合か!」と怒り出すので、自由な時間はまったくありませんでした。

――当時、一番印象に残っている出来事は何ですか?

森 新選組リアンのデビューイベントですね。
京都の教王護国寺でコンサートを行ったんですが、まったく素人だった僕たちのために、8,000人ものファンの方が集まったんです。あそこで「人生が変わった」という実感が湧きました。

――最盛期はどれくらい忙しかったですか?

森 僕は新選組リアンのほかに、サーターアンダギー(山田親太朗松岡卓弥とのユニット。13年解散)も掛け持ちしていたので、リリースが重なると2週間以上も地方営業が続くような状態でした。その間にテレビ収録が入ってくる感じですね。

――相当羽振りもよくなったのでは?

森 ぶっちゃけ、デビュー後の3年間の月給は5万円でした。
もちろん食費や生活費、交通費なんかは出してもらっていたので、お金に困るということはありませんでしたが、デビューしてから6年間、お金を持っていた時期は一度もないですね。

――そうなんですか? 普通、デビュー直後に売れると「天狗になる」というのが芸能界のお決まりですが……。

森 僕らはまったくなかったですね。服も、ファンの方からプレゼントしてもらったものを着ていて、とても助かっていました。僕はグループを掛け持ちしていたので、プレゼントも2倍でしたし(笑)。

――ヘキサゴンファミリーで一番親交が深いのは誰ですか?

森 山田親太朗さんですね。
先日も飲みに行ったんですが、全額おごってくれて。新選組リアンが解散した時も親太朗さんに相談したんですが、「辞めたところで、やりたいことなんてないんだろ?」と言ってくれました。テレビでは弟キャラに見える親太朗さんですが、僕にとっては完全に兄貴分です。

 ヘキサゴンファミリーには、派閥とかグループもなく、一致団結したチームでした。品川庄司品川祐さんや元木大介さんにご馳走になったこともありましたね。ただ、僕は一番若くて芸歴も浅かったんで、ファミリーの方々とはちょっと距離がありましたね。
僕は最後までみんなの輪に入れなかったです(笑)。

――日テレデビューのグループがフジの番組に出るのは異例だと思いますが……。

森 個人的に「大丈夫なの?」という思いもありましたが、これも全ては紳助さんのおかげなんです。フジの楽屋で局幹部の方々との打ち合わせ中、紳助さんが「『ヘキサゴン』にこの子出したらエエんちゃう?」とわざと大きい声で言ってくれて。周りの方たちも「紳助さんが言うなら間違いないね」となりました。あの頃紳助さんは、本当に全ての出演番組で、いちプロデューサーとしても動いていましたから。

――紳助さんの引退に際しては、相当ドタバタだったのでは?

 発表の前日に事務所の方から聞きました。実は会見当日、新選組リアンはライブが入っていて、ほかのメンバーは本番直前に「これから紳助さんが引退会見を開く」といきなり聞かされたんですよ。その日の打ち上げは、最悪の雰囲気でしたね(笑)。

 紳助さんについて行けば大丈夫と思っていたので、正直「なんでだよ!」とは思いました。引退後しばらくして、紳助さんから「いきなりスマンな。もう面倒見てやれんけど、いつまでも応援するで」とメールが来て、その後、落ち着いてからは連絡も取るようになり、最近でもたまに飲みに連れて行ってもらっていますよ。

――その後、新選組リアンは活動継続の道を選んだものの、14年に解散しました。

森 12年に事務所から「もう契約の更新はできません」と通達され、もう引退していた紳助さんに相談したところ、吉本興業に「面倒見てやってくれ」と口添えしてくれたんです。でも、そこから本当の挫折を味わうことになった。当時は「やっと自分たちの好きなようにできるんだ!」という思いもありましたが、実際にはうまくいかないことの方が多くて、そこで初めて「今まで自分たちは周りの人間に助けられていただけ」ということがわかりました。採算が見込めないからと、CDリリースさえできない状態だったんです。

――新選組リアンにとっても、紳助さんは必要不可欠だったということでしょうか?

森 結局、紳助さんの発案ありきのユニットだったんです。ライブは毎月必ずやって、何とか食っていけるくらいのギャラはもらっていましたが、各メンバーとの方向性の違いや確執もどんどん広がって……。僕は「新選組」ということで和のテイストを押し出したかったんですが、あるメンバーは「ロック色を打ち出したい」とか、「もっとジャニーズっぽい感じにしたい」とか。紳助さんがいなくなってしまったことで、完全に方向性を見失っていました。紳助さんがいた頃にはZeppツアー(Zepp 東京の最大キャパシティは約2,500人)も開催したんですが、その後、動員がどんどん減っていき、200~300人くらいのライブハウスに。多分、ファンの方にも「こいつらブレてんな」っていうのが伝わっていたんだと思います。

――現在は、どのような活動をしているんでしょうか?

森 今年から本格的に役者をやっています。出演した舞台で「やるべきことはこれだ」と思い、今は、バーでアルバイトもしながら、役者として食っていけるよういろいろ動いている状態ですね。来年は映画に出演できたらと考えています。

 挫折で得たものは、人生の厳しさを知ったこと。でも、短期間で何度も挫折があったからこそ、ゼロから再スタートできたんだと思います。とりあえず、「僕はまだいるよ!」ということを知ってもらえたら。それに、デビューしてから6年間、ずっと応援してくれるファンの方もいるので、その方々のためにも、芸能界で頑張っていきたいと思っています。

森公平(もり・こうへい)
1988年生まれ。2009年、『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ系)の企画から、新選組リアンの一員としてデビュー。現在、よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属し、役者業を中心に活動している。