お笑い芸人がワイドショーに進出するようになって久しい。『バイキング』(フジテレビ)の雨上がり決死隊、『スッキリ!!』(日本テレビ)司会の加藤浩次、コメンテーターとして『白熱ライブ ビビット』(TBS)出演するオリエンタルラジオ・中田敦彦など、例をあげていけば枚挙に暇がない。



 しかし、彼らがそういった情報番組のなかで普段のバラエティ番組で見せるような仕事ができているかといえば、まったくそんなことはない。

 本業のお笑いで見せる横紙破りなキャラクターが嘘のように、情報番組のなかで彼らは「世間の声」を代弁する「優等生」として振る舞っている。中田敦彦がベッキーのことを「あざとい」と断罪したことが象徴的なように、情報番組に出た芸人たちは、世間の常識に抗って笑いを生み出す存在ではなく、世間の常識を体現するだけの存在になってしまっている。

 だから、『ワイドナショー』(フジテレビ)の松本人志や『ノンストップ!』(同)コメンテーターの小籔千豊のように、もはや政権与党の公式コメンテーターのごとく振る舞う人間が出てくるのもまったく不思議な流れではない。安全保障に関する問題にせよ、女性の社会進出に関する問題にせよ、彼らはその「保守オヤジ」っぷりを遺憾なく発揮しているが、それも、どんどん保守化する世間の空気に過剰適応した結果なのだろう。

 そんななか、サブカルファンから熱狂的な人気を得ている芸人のマキタスポーツが「TV Bros.」(東京ニュース通信社)2016年7月30日号の連載コラムのなかで、かなり鋭い発言を繰り出した。
彼はまず、先の参院選における候補者の演説を振り返り、こんな感想を漏らす。

〈安倍さんの全く音楽的じゃない喋りを思い、これを選ぶ日本人の感性に対して「やっぱなんか理由があんじゃないの?」って思ってしまいました。ああいうなんの魅力もない人を"上に頂いておく"という「日本人と政治」に対しての感慨です〉

 そのうえで、マキタスポーツは、こんな疑問を投げかけるのだった。

〈「政治と笑い」って日本人は不得手ですよね。政治家をおちょくるやつで、面白いの見たことない〉

 確かに、日本の芸人たちは「政治」をテーマにするのがとても苦手だ。前述のように、昨今では情報番組にも多数の芸人が進出しているが、その場で彼らがすることは笑いを生み出すことではなく、お茶の間の視聴者が溜飲を下げるような「模範的回答」を口にするだけだ。
そこには、ブリーフに茶色い染みをつけていた「アホアホマン」の姿も、女性アイドルだろうと関係なく投げ飛ばす「爆裂お父さん」の姿もない。彼らがこれまでコント番組で行ってきた論争を呼ぶような行動は、テーマが「政治」になった瞬間、一気に鳴りを潜めてしまう。

 翻って、欧米諸国のコメディアンたちが「政治」をテーマにするときの態度は真逆だ。

 古くは、ヒトラーを徹底的に揶揄したチャールズ・チャップリン、英国王室、教会、軍人、警察など硬直した権威の欺瞞を茶化し続けたモンティ・パイソンなど、欧米のコメディアンは常に議論を呼ぶような内容を伴いながら笑いを生んできた。

 現在、そうした動きの急先鋒として存在するのがサシャ・バロン・コーエンだろう。彼の出世作となった2006年公開の映画『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』は、人種差別、女性差別、同性愛差別といったタブーに敢えて土足で踏み込むことで、現在のアメリカに巣くうグロテスクな「差別問題」の構図をブラックジョークとともにあぶり出してみせた。


 彼らが「政治」に向き合う態度は、日本の芸人たちの「優等生」的態度とは正反対のものである。

 サシャ・バロン・コーエンの映画は世界24カ国以上で初登場1位を獲得するなど世界的に人気を博しているが、日本において彼の作品は「カルト」の域を出るものではなく、その状態はいまでも続いている。

 その理由は、日本の芸人たちが情報番組で「世間の声」の代弁者となってしまう風土と地続きなのは間違いない。サシャ・バロン・コーエンを絶賛し、日本にも彼の存在を紹介すべく尽力し続けてきた水道橋博士は、ウェブサイト「映画.com」のインタビューにこう答えている。

「コメディの力や破壊力を世界中に知らしめている。そこは本当にリスペクト。
日本のお笑いに求められている過激さは、アメリカやイギリスとまったく違う。僕はどうしても同調圧力に負けてしまう」

 水道橋博士は「同調圧力」と表現しているが、それは詰まるところ、権力を「風刺」して世間に波風を立てるような芸を展開するなという「圧力」だろう。そして、元来「空気を読む」スキルが異常に高く、それゆえにバラエティ番組のみならずあらゆるジャンルの番組に進出していった芸人たちは、空気を読み過ぎてしまい、結果として単なる「優等生」と成り果ててしまう。それは「空気を読む」ことに長けているが故の弱点でもある。

 だが、欧米のコメディアンたちがやっているのは、敢えて空気を読まず、世間に波風を立てることで笑いを起こす「風刺」である。日本の笑芸には、この「風刺」がない。
これに関し、前掲「TV Bros.」でマキタスポーツはこのように書いている。

〈これに関しては「パーティがないからパーティジョークの必要無し」ってことだと。「社交の場」の在り方は名称上パーティであっても、向こうのパーティとは違いますよね。同じように、向こうで「政治」と言ってるものと、相変わらず日本の「政治」は違うんだと思うんです、向こうの政治や、政治的な場にはジョークが必要なんでしょう。「風刺」がないとダメなんですよ、マナー的に。日本は風刺が無くてもやってけるんです。
だから日本人がやってる「政治」は、政治じゃないのかもしれない〉

 笑いに「風刺」を入れるためには、当然、権力に対する強烈な皮肉や、ギリギリの表現が求められる。空気を読み過ぎる日本の芸人たちからは、こういった表現に挑戦しようという意識が生まれないのだが、日本のお笑いに「風刺」が生まれない原因は芸人たちのその特性だけにあるのではない。少しでも尖った表現は排除しようとするテレビ局のスタッフにも問題がある。

 映画ライターの高橋ヨシキ氏は、モンティ・パイソンが「アーサー王伝説」をパロディ化し王室や教会を徹底的にバカにし尽くした映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』をテーマにした、作家・高橋源一郎との対話のなかで、「お笑い」「コメディ」の本質的な役割についてこう話している。

「まあ、もともとコメディっていうのはそういうことをするジャンルなはずですね。つまり、権力をもっている方が強いに決まってるんだから、もってない側は何が出来るかっていったら、何も出来ないんだったらただ押さえつけられるだけになってしまうんですけれども、その代わりこっちはギャグにして笑い飛ばすことぐらいは残されているっていう。それが許されなくなるんだったら、ホントそれは恐怖社会ですよね」(『すっぴん!』(NHKラジオ)16年7月8日放送分より)

 松本人志や小籔千豊とは違い、世間の空気に迎合しないで、一流の「風刺」を情報番組のなかで見せてくれる芸人は現れるのだろうか? 
(新田 樹)