中国メディアの騰訊新聞は26日、「なぜ、日本には武士が存在し、中国には存在しなかったのか」と題する記事を掲載した。中国では「武士」や「武士道」が「軍国主義の原因」と否定的に紹介される場合が多いが、同記事は日本と中国の国情と歴史的発展の違いを客観的に説明した。


 記事はまず、過去の「農耕時代」には生産性が低かったたために土地争いが深刻であり、兵力の多い者が大きな権力を握ることになったと紹介。土地を確保するために「武士階級」が出現したのは、日本だけでなく古い時代の中国も同じと論じた。

 違いとしては、中国では武士階級が早い時期に消失したのに比べ日本では「源平の戦い」以降、700年も武士による「軍政」が継続したと指摘。1885年に内閣制度が発足してから1945年の終戦までに29人が首相となったが、うち25人までが武士階級の出身だったことにも触れた。

 記事は、中国で武士階級が消滅した原因として、中国が大陸国家であり、「内陸部から来る勢力との衝突」がしばしば発生し、「大統一により力量を集中させる」方向に歴史が動いたのに対して、日本は小さな島国で、さらに耕作可能な土地が沿岸の小さな平野や、山に囲まれた盆地しかなかったので、大きく広がるよりも、地方ごとに別れる「割拠主義」が強くなったと論じた。

 中国にも漢代末期、唐朝末期や宋代には地方で軍事勢力が割拠する場面もあったが、地方が割拠するままで歴史が推移していくのではなく、中央政権が地方割拠の問題を解決できなければ、「地方出身の勢力」によって王朝が交代することになったと指摘した。


 日本では、大化の改新で租庸調や班田収授の中央集権制度を設けたが、地方からは不満が出たと紹介。結局は、荘園が中央政府に従わなくなり、天皇の政治的影響力は衰微したと論じた。そして、地方の武士勢力が日本史の主役になったと説明した。

 記事は、「中央政権が全国を一律に統治する」時代を「帝国時代」と表現。日本が「帝国時代」を迎えたのは明治時代であり、極めて遅かったと指摘。一方、中国は極めて早く「帝国時代」を迎えたが社会は安定せず、再び分裂時代に戻ることもあったと説明し、「帝国時代」の経験について日中は「両極端」だったと主張した。


 中国でも古い時代には「士大夫階級」が文武両道に励んだが、「帝国時代」になってからは地方士族として「文教」を担うだけの存在なった。一方で、武官は中央宮廷に仕える存在となった。記事は、中国の「武官」は日本の武士とは性格が異なったと指摘した。

 日本では、地方領主と家臣である武士の間に「人間的つながり」が発生し、武士は中央の統治者とは関係なく禄を食むことになった。そして日本の武士は中国の古い士大夫と同様に、軍事だけでなく文教、芸術、思想、技術をたしなむ「中間階級」となったと指摘。幕末には基本的に武士が変革の中心勢力となり、尊王攘夷と明治維新を行ったのは「決して偶然ではない」と論じた。


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◆解説◆
 日本では、江戸時代に完成された武士による統治システムが、「公(おおやけ)」の概念を発展させやすくしたとの指摘もある。武士が仕えたそれぞれの「主家」は、中国の「中央王朝」ほど大きな規模ではないので、「皆のため」との感覚を持ちやすかったとの説だ。農民が農村内部の意志決定をする際には、「寄り合い」という合議制が機能したので、やはり「公」の意識を持ちやすかったという。

 清朝は1840-42年のアヘン戦争敗れると、英国に対して香港の割譲を比較的あっさりと認めた。中央集権の感覚が極めて強く、国家そのものが「皇帝の私有物」だったので、皇帝を守るためならば「財産の割譲」に対する抵抗感は比較的小さかった。

 一方で、長州藩は1863-64年の下関戦争に敗北した際の談判で、再攻撃される危険がありながら列強に対して彦島の租借を断固として拒否したとされる(疑問視する説もある)。
武士にとって藩領は「父祖が血で獲得したもの。今は公共物」であり、藩の生き残りのためとしても差し出すことに大きな抵抗感があったと解釈できる。(編集担当:如月隼人)(イメージ写真提供:CNSPHOTO)


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