ライター・編集者の飯田一史さんと、『シン・ゴジラ論』を刊行したSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。今回は映画『沈黙─サイレンス─』について語り合います。


スコセッシ監督の新作映画『沈黙』傑作!


映画『沈黙』はいい映画だけど、冷静に考えてみてほしいこと
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藤田 マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』。なんと、遠藤周作の原作を映画化です。驚きました。そして、実に良かったです。「なんで今?」って思ったけど、今やる意味は充分にあった。
 基本的には、キリスト教を布教したせいで日本人のキリシタンが迫害されるのを見て、神はなぜ沈黙しているのかを問う作品ですね。受難もののバリエーションというのかな。
それが、キリスト教の植民地主義的な支配の傾向への批判的見解をも経由させた上で、現代に蘇らせた感じ。
 日本人がキリシタンを拷問するのは、アメリカ人がイスラムの人たちを拷問するのと、少し重なって見えた気もしますし。勝手にキリスト教を布教したが故に争いが起きるという主題は、宗教を巡る戦争が起こっている現在に問われる意味があると思います。

飯田 僕もすごいよかったです。ただ一歩引いて見ると、どうなんだろうと思うところもあるのですが……それはおいおい。
 あらすじを簡単に言うと、師匠である司祭フェレイラが日本で棄教して帰化したという知らせを聞いたイエズス会の司祭ロドリゴたちは、キリスト教徒が弾圧され拷問にかけられている江戸時代(天草の乱のあとの時代)の日本へと渡り、フェレイラを探す。
日本で奇形化した信仰のありように驚きながらも熱心な信徒たちからかくまわれていたロドリゴだったがついに奉行の井上たちに捕まり、ひとりは殉教し、主人公は「転ぶ」(棄教する)ことを迫られる。説得のために寄こされたフェレイラとついに再会するが、師は「この地は沼だ。信仰が根付かない」と言う……。
 みたいな話です。

藤田 最近のスコセッシ作品は、『シャッターアイランド』『ヒューゴの不思議な発明』があまりピンと来なくて、さほど期待していなかったのですが。躁的なテンションの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の後にまさかこんなトーンの作品が来るとは……
 敬虔な信徒のモキチを演じた塚本晋也さんの演技がすごすぎたってだけではないと思うんですけど、塚本さんの『野火』っぽさがある。
自然の中にずっといながら、ひたすら悲惨なことが起きて、神の存在を問うという内容面でもそうですね。映画版ではほとんど消えていましたが、大岡昇平の『野火』ってキリスト教についての文学、信仰についての文学でもあるんですよ。なんか、映画『野火』でなくなったその主題が、『沈黙』で全面展開されているような錯覚をする映画でした。

飯田 有名な話ですが一応言っておくと、シチリア系移民二世でニューヨークで生まれ育ったスコセッシは、ぜんそく持ちで外で遊ぶとかできなかったので教会と映画館が幼少期の心のよりどころで、司祭になるつもりだった時期もあった。で、映画監督になったあとも信仰を捨てたわけではなく、キリストが普通の人間みたいに結婚して妻と交わり子供を持つことを描いて物議を醸した『最後の誘惑』を撮ったあとで、遠藤周作の『沈黙』に出会って惚れ込んだと。出会いから28年ごしに撮ったわけですが、『最後の誘惑』も企画が企画だけに頓挫したけれどもあきらめずに執念で撮った過去があります。


藤田 遠藤周作の『沈黙』はマジで好きらしいですね。本作もノーギャラで撮ったという話が一部で報じられています。この映画を作る行為自体が、まぁ、求道者的というか、信仰の道になっているような映画ですね。

飯田 スコセッシはもともと「受難の出来事を劇化したものが大好き」と言っています。
 カトリック的なモチーフや場所は、表向きそういう題材を扱った作品でないものにもたくさん出てきます。過去作で言えば『ミーン・ストリート』のオープニング・シーンと『ドアをノックするのは誰?』が終わるところはどっちも教会だし、『ラストワルツ』のときはスコセッシが「この歌にはカソリックのヴィジョンがあるから、そのように撮るべきだ」と言ったら撮影監督のマイケル・チャップマンが「違う。
これはプロテスタントのストーリーだ。これはバプティストだよ、マーティ」と言ってゴスペル音楽の宗教的暗示について説明し始めたbyロビー・ロバートソン(『スコセッシはこうして映画をつくってきた』202p)みたいなエピソードにも事欠かない。『アリスの恋』でDVしまくるキレやすい(死んじゃう)旦那ですらメシ食うときは主にお祈りしてから食事するんだよね。『明日に処刑を…』なんて共産主義者のアジテーターが最後、列車に磔にされるし(「宗教は阿片」ってマルクスが言ってたのに!!! ただ『沈黙』以後なら、あの話も赤狩りとキリシタン弾圧を重ね合わせて観ることもできますね)
 そして今回の『沈黙』と。有名な話だけど遠藤周作は「神は沈黙してない」って思って書いたんだけど誤読されまくっているという。スコセッシは「沈黙してないよね」ってことを原作よりはるかにわかりやすく描いてましたね。
終わり方を原作からは変えて。

藤田 めっちゃ神が話しかけてきますからねw
 真の信仰は、たとえ踏み絵をしたり、表面的に言葉や態度で示さないとしても、生きているものだ、たとえ外側から裏切り者に見えたり汚名を着せられたりしても…… という内容ですね。「転ぶ」、つまり、改宗するというのは、思想の世界で言えば「転向」に相当するのだけれど。キリシタンではないかと疑心暗鬼になりながら隠れて信仰を保つとか、スパイが出るとか、あの感じは、赤狩りの時期や、ファシズム期のドイツなども思わせます。
 思うとおりに信仰を貫くことができない時代に、意に沿わないことをしてでも、他者から謗りを受けても、真の信仰があるかもしれない、そういう存在について描いた映画ですね。ちょっと『ローグ・ワン』に似ているかも。

いい映画だけど、冷静に考えてみてほしいこともある


映画『沈黙』はいい映画だけど、冷静に考えてみてほしいこと
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飯田 『沈黙』は美談とか悲劇みたいになってるけど、たとえば進化論を否定するようなキリスト教ファンダメンタリストがこれを観て勇気をもらっちゃってもなあ……という気もします。20世紀よりもはるかに宗教の力が強まっている時代だから怖いとも言える。世俗化しながらもラディカルな部分は隠し持って生きるという話なので。

藤田 左翼が大企業の社長になって資本主義の中枢に行くような話でしょw まぁ、現実によくあることじゃないですか。

飯田 そんなゼンショーの社長みたいな話だったかなあ……w
 だいたい、日本でキリシタンや宣教師たちが弾圧されたのは、そもそも戦国時代の宣教師が日本人の子供の人身売買にめっちゃ関与していてインドや東南アジアに売り飛ばしまくっていてたり、「寺社仏閣を破壊したら救われる」とか吹聴してキリシタンたちが実行しまくって、それで秀吉も困っちゃってイエズス会と交渉したけど聞き入れなかったからだからね。異教徒のことを敵視したり、人間扱いしていなかったのは元々おめえらのほうだからっていう話なんですよ。それの延長に徳川幕府の取り締まりがあるわけで(詳しくは神田千里『戦国と宗教』岩波新書を参照)。

藤田 植民地主義の暴力の洒落にならなさの部分も描いて欲しいというのは、その通りですね。

飯田 「日本で奇形化した信仰ガー」とか言ってるけどそもそもルターとかカルヴァンにそういうところを突っ込まれたのが、腐敗していた時代のカトリック教会じゃないんですかとか普通に思いますよね。
 この話だと「日本は仏教の国だからキリスト教いらね」とかってことになってるけど、ちなみに秀吉に「バテレンなんとかしてくれ」ってお願いしたのは伊勢神宮ですからねw 寺じゃなくて神社!
 あとその仏教だって、日本でも受容するときは崇仏派の蘇我氏と廃仏派で古来から土地にいる神々を崇めるべきと考える物部氏で(実態はどっちの教えがすぐれているかとかそういう次元ではなく、むしろもっと世俗的・政治的な権力闘争レベルだったようですが)争っていたし、インドから中国、朝鮮、日本と伝播する過程でぜんぜん変わっている。飛鳥時代に百済から入ってきたときと鎌倉以降の大衆仏教でもぜんぜん違うしね。
 キリスト教だってキリスト自身の教えと直弟子とかパウロ以降ではもちろん変化してるし、日本以外にもラテンアメリカとかに入ったときだって現地の太陽神信仰と融合させたりとかして変わっている。宗教ってそうやって変化しながら伝播していくものだと思うので、「日本では教会の教えが根付かない。別物にされてしまう」というあの問いは類型的な日本特殊論に堕しすぎていてよくわからないといえばわからないし、逆に世界中どこでも起こっているという意味では普遍的であるとも言える。

藤田 日本が、キリスト教が「畸形」になる「沼」だというのはその通りだと思うんですが――「悪い場所」論や、中村光夫の私小説批判にも似た、外来の思想が日本化されてしまうという問題と通じていると思うんですが――その「畸形」をどう捉えるかですよね。そういう「雑種」性や「ハイブリッド」性、「サイボーグ」性を積極的に肯定する道もある。タランティーノの『キル・ビル』はそっち路線だったのと比較すると、「畸形」や「沼」に対する本作の態度がこれでいいのかは気になりますね。


飯田 奇形化とか言ったらさ、ロドリゴは踏み絵を踏んだけど本当は信仰を捨てていなかったって話になってるけど、あれこそ勝手な奇形化でしょう。殉教するのが筋だから。本来。

藤田 仏教・権力を表面的に受け入れながら、心にはキリスト教というハイブリッドになるのを肯定する話でもありますね。
 遠藤周作が原作を発表した1966年は、新左翼が元気な頃ですからね。吉本隆明が「転向論」を出したのが1958年ですから。原作には、第二次世界大戦のときに弾圧され、拷問を受けて「転向」した共産主義者や自由主義者、そして敗戦によって実質的に「転向」せざるをえなかった国粋主義者や天皇主義者たちの問題をも含まれていたはずです。

飯田 「地獄に堕ちた者にはいかなる救いもない、信徒の親族であっても例外ではない」ってザビエルとかが言ってたから&死ねば天国行けるっていう短絡化した信仰を抱いているからキリシタンは転向しなかったわけで。目の前で誰かが苦しんでるから(かたちだけとはいえ)棄教するなんてのは本来ぬるすぎる(とカトリックの人たちも遠藤周作を批判してました)。

藤田 あの短絡化した信仰(死んだらはらいそ=天国に行ける)は、日本的に「誤読」されたキリスト教そのものですよね。イスラム原理主義者に近い。

飯田 信仰をもたない人間にはロドリゴの悩みは切実な葛藤に見えるけど、ガチな人にとっては「は? あんなの問題にならないっすよ」ってことみたいですね。

「弱い人間」と救い


映画『沈黙』はいい映画だけど、冷静に考えてみてほしいこと
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藤田 それはキリスト教をどういう風に捉えるのかなんですが…… キリスト教って、ユダヤ教の「教条主義」を否定してぶっ殺されたキリストを神としちゃうわけでしょう。つまり、教条性を批判し、自己否定して更新していく宗教である。だからこそ、近代の、科学や資本主義と相性がよく、強いのだ、という考え方があります。遠藤周作とスコセッシは、教条化したキリスト教を否定し、苦悩しながらなんとか正しいと思うことを探すことこそが、むしろ「キリスト」教の精神に近いと考えたのでしょう。

飯田 このまえ青野太潮『パウロ』(岩波新書)という本を読んだんですけど、それによるとパウロは、神は律法を遵守するわざや行いがまったくない不信心な者をそのままで義とする(正しいとする)のであり、そのような神を信じ、そのことを明らかにしたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、人は救われるのだという、いわゆる「信仰義認論」に深く通じるものを唱えていたのだというのが青野説なんですね。
 すぐ踏み絵踏んじゃったり仲間を売ったりするんだけど何回も告解して信仰を回復するキチジローへの肯定的な視線は、こういう考えから来てるんだろうなあと。
 パウロは、自分は弱い人間であり、そういう自分と同様に弱い存在であるキリストを知ることが神の奥義であり、知恵であり賢さなのだと説いたのだと『パウロ』には書いてあってですね。
 パウロは「弱さこそが強さ」「愚かさこそが賢さ」「躓きこそが救い」「呪いこそが祝福」と逆説的な意味でイエスの十字架を肯定的に捉え直した、十字架の上で無残な姿をさらし続けるイエスから目をそむけず、その無残な姿を深く心にとどめよ、神はそういう無残な姿をさらすイエスをこそ肯定しているんだと。
 これはけっこう『沈黙』に近いのでは? と思いました。

藤田 イエスって、生前の行いはマジで滅茶苦茶ですからねw
 キチジローは、あの映画の複雑性を象徴するような人物ですね。悪に見えたり善に見えたり、矮小に見えたり…… あの存在を受容してしまうところが、この映画の肝ですね。

飯田 スコセッシは『キング・オブ・コメディ』の主人公の売れないストーカーコメディアンとか、どうしようもない人間が最終的には破滅の果てに救われる(?)話を撮ってきたので、キチジローが好きなのはよくわかるんですよ。

藤田 スコセッシ監督のインタビューによると「弱い人間」に対する意識はあるようですね。

飯田 ダライ・ラマを主人公にしてチベット仏教の中国からの弾圧を描いた『クンドゥン』とかの系列の受難劇と、投資サギで稼ぎまくってドラッグと女に溺れ果てたやつが主人公の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』みたいなタイプの話がスコセッシにはあって、『沈黙』では前者が主人公の司祭ロドリゴ、後者がキチジローというかたちで同居していて、どちらも救われるべきというスコセッシの信仰観/人間観が見えた気がしました。

藤田 既成の宗教の欺瞞に逆らって暴れて疎まれたり、娼婦達と仲良くしたり、悩んだり迷ったりした挙句、権力に弾圧されて死刑になっちゃった「人間」であるイエスを「神」として崇めるというのはどういうことなのかという話なのだと思うのですよね。

飯田 それは『最後の誘惑』でしょw

藤田 弱さを含めて人間存在を肯定する、そういう人間の生にも意味があるとしたい、そういう思いが多くの人にあったからこそキリスト教がここまで流行ったのだろうか。

飯田 しかし、親鸞とかもそういう考えっちゃ考えだからねえ……。

藤田 ユダヤ教もキリスト教も、弾圧の中で育まれた宗教なので、構造的に弾圧なり受難なりを必要としてしまう信仰なのかも……ってところが個人的には少し疑問があるところだったりします。
 日本における「受難」は「自然災害」だから、「神」の代わりに「自然」がある、なんていうのは、山本七平らの考えですけどね。

飯田 弾圧されていたローマ帝国時代はともかく、その後にキリスト教が普及した理由は明らかに現世利益と結びついていて、秀吉以前は日本で許容されていたのも、南蛮貿易とセットで入ってきたものだったからだよね。『沈黙』でも棄教したあとの司祭フェレイラが天文学の本を幕府に書かされているけど、基本的に知識や技術と信仰はセットで流通するものだから。ローマ教会がポルトガル王室に宣教を援助するかわりに植民地経営の権限を認めたから、日本にも宣教師が入ってきたわけだよね。
 それは古代の倭が百済から仏教を受容したときも同じです。仏像や寺を作る建築や工芸の高度な技術、お経を読んで理解するための文字や思想・教養の体系とセットだった。

藤田 知識と技術の上っ面だけを自覚的に輸入しようという態度は、戦後の日本もそうかもしれませんね。

飯田 上っ面というか……信仰と理性・真理(の探求)を分けるのが近代的な考えだけど、カトリックは分けないから。不可分だというのが基本的な考えであって。それを分けて輸入しようとした徳川幕府の方が近代的でしょう、ある意味。

藤田 そうですねw


「日本」の描き方の違和感のなさがすごい


映画『沈黙』はいい映画だけど、冷静に考えてみてほしいこと
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藤田 外国の監督が描いた「日本」としては、相対的に、違和感のない映画で、描き方もステレオタイプでなかったのは評価されるべきかと思います。弾圧する側の井上さんの造型が実に良かった。キリスト教者の望むような劇的な展開にさせない、ぬめっとした権力を描いていて。彼は、キリスト教を理解しているんですよね、原作では信仰していたのだったかな。

飯田 そうですね。奉行の井上は昔は信仰があったと。映画ではそのへん出てこなかったような。
 共産圏の人民大虐殺とかに比べると日本の弾圧は「厳しい」と言っても独特というか、最初は厳しくしていたけど戦略を変えて手籠めにしようとしてきたっていうのが、収容所国家への道を突き進んだ共産主義とは逆だなあと。中国によるチベット弾圧とかポルポト時代のカンボジアのムスリム弾圧に比べてもぬるいでしょう。もう、映画で描かれた時代では形だけだもんね。踏み絵にしても。「形だけでいい」って権力側が公言しちゃってるのすごくない?

藤田 あの「形だけでいい」とか、「踏んだら赦してやる」的な権力の構造が、日本固有の「沼」っぽくて怖く見えるんじゃないでしょうか、西洋の人には。ぼくも怖いものw
 そういえば、あと一つ、本作ですごく褒めたいのが、「堂々とした日本人英語」です! 塚本晋也さんが『鉄男3』で自覚的にやったような、日本人訛りの英語を全体的に使っていて、そこが実によかった。「日本人訛りの英語」が全世界で通用するようになってほしいです。「じいさま」と「ジーザス」が似た響きになっているとか、言葉の次元でも「混ざって異形になっている」クレオールな響き合いが起こっているのはよかったです。

飯田 「じいさま」と「ジーザス」が似た響きになっているwww そういえばポルトガル人相手にポルトガル語で「パライソ」って言ってるのにわざわざ「Paradise」って英語で言い直すなよw って一部で突っ込まれていたみたいですね。
 それはさておき、日本人くささの描写が全然違和感ないのが本当に驚き。「あー、日本って本当こうだよね」って思ったもの。スコセッシはドナルド・キーンを読みこんだり、遠藤周作以外にも漱石とか谷崎、太宰といった日本の近代文学も相当読んだみたいね。
 逆を考えたら相当すごい。イタリアからの移民二世でニューヨーク育ちの人間の話を違和感なく作れる日本人が一体何人いるのかと……。

藤田 『十戒』とかをモデルに考えるような、「規則破ったら殺すから」的な神を父性的な権力のモデルにすると、ここで描かれている日本は母性的な権力構造ですよね。

飯田 日本人のマリア信仰への傾倒も強調されているしね。

藤田 だから、弾圧者でもあり権力者である井上さんが、目の前で笑っているおじいさんと一致しないという印象的なシーンになる。

飯田 浅野忠信演じる通辞の立ち位置も独特。司祭にとっても単純な敵でもなければ味方でもない。
 もっとも、死んでいく人間は総じて、ストイックであることと裏返しに、単純といえば単純にも見えますが……。


ストイックならいいのか?


映画『沈黙』はいい映画だけど、冷静に考えてみてほしいこと
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飯田 映画『沈黙』、褒められすぎているというかググっても批判や否定がほとんど出てこないのがちょっとやばいのではと思ってごちゃごちゃ相対化するようなことを言いましたが、基本的にはとても好きだし、技術的にも相変わらずチャレンジしているなあと思って感嘆しましたよ、もちろん!!! 塚本晋也監督が磔にかけられてガリガリになってアバラが見えているところとかね、衝撃ですよ。

藤田 あの波を浮けまくっているシーン、どうやって撮ったのか。本当に壮絶でハラハラしましたよ。

飯田 しかし、『最後の誘惑』の炎上具合と比べると今回はスコセッシがバチカンに行ってもわりと好意的みたいで全然違うよね。キリストを人間らしく描いた話と、宣教師が受難しながらも信仰をある意味貫くという話だとこうも反応が変わるのかと……

藤田 反省が生かされたからかも……(原作は、当時非難受けていたらしいですけどね)

飯田 遠藤周作は輪廻転生を信じてたし、昨今のシンギュラリタリアンやニューエイジにも影響を与えた異端のテイヤール・ド・シャルダンを評価してたり、そもそもイエスの復活について「信じている」とは言っていなかったり(スコセッシは信じていると公言しています)、カトリックの保守本流からは批判されるようなことばっか書いてるからね……。

藤田 そろそろまとめますが、『沈黙』は淡々としているけど、非常に力強い、信仰を巡るドラマですし、信念を巡るドラマや、生き方を巡るドラマとして観たら観やすいかもですね。卑怯者になりたくない、とか、後ろ指差されたくないとか、そういう人生を送りたくないのに不本意に送らざるをえなくなってしまったときにどうするのか、というパターンを無数に描いた映画として観れば、多くの人が共感できるはずです。自分が殺されたり拷問されたりする殉教の英雄的な死よりも過酷な、善良な周囲の人間が拷問を受け次々に殺されていくときに何をするのが「正しい」のか、という選択を迫られる話ですね。

飯田 と同時に、キチジロー的な、逃げまくってしたたかに生きるという強さもある。今は卑怯なやつはすぐネットやマスコミで叩かれてオモテに出てこられなくなる時代とも言えるわけですが、もちろん、ずるいやつがのさばるよりはいいことのような気もするけど、心が弱い人間が叩かれすぎるのは窮屈でもある。「ストイックならいいのか?」という疑問を隠さないのがこの映画のいいところだなと僕は思って観ました。

藤田 みんなが叩いて炎上してデマが蔓延っても、神は真実・事実を知っているから! 外に見えなくても知っているから! ……という信仰がどうして必要になってくるのかのメカニズムを思い知らされる映画でもありましたね。