ライター・編集者の飯田一史さんと、『シン・ゴジラ論』を刊行したSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。今回は映画『バイオハザード ザ・ファイナル』について語り合います。


良い意味でも悪い意味でも「ゲーム的」!


『バイオハザード ザ・ファイナル』を観て、別に人類は生き残らなくていいと思った話

飯田 2002年スタートのミラ・ショヴォヴィッチの代表作である映画『バイオハザード』(原題はゲーム『バイオハザード』の英語タイトルである『RESIDENT EVIL』)シリーズの最終作ですね。
 アンブレラ社によってつくられた、感染するとゾンビになっちゃうTウィルスへの抗体を持つソルジャー・アリスが、冷凍睡眠しているアンブレラ社の幹部を除いて人類を滅亡させるという「ノアの方舟」さながらなシナリオを回避すべく、ゾンビを絶滅させる薬品を手に入れるためにアンブレラ社に潜入、前作では敵対していた人工知能「赤の女王」と協力しながら幹部を倒すことをめざす、と。

藤田 主演のミラ・ジョボヴィッチと、監督は夫婦。シリーズ全体の監督・プロデューサーとして同じ人間が関わり続けたというなかなか珍しいシリーズですね。
 ゲームの映画化作品としては、興業的にも内容的にも成功しているなかなか稀な作品です。内容が、映画として評価できるのかどうかという話は色々あるのですが…… ぼくはこういうの、好きですよ。
 「ゲームらしさ」はあって、仲間の集団が罠に嵌ったりして、次々と容赦なく感情移入もなくサクサク死んでいく感じは、ゲームプレイで操作キャラが罠に嵌る感じですね。
「3」では、主人公のアリスのクローンが課題に何度もチャレンジする「ゲーム的リアリズム」っぽいものが書かれていました。他にも、FPSや、『PORTAL』など、「ゲームっぽさ」を画面のレベルや構成のレベルで映画にしていて、実に奇妙なんですよ。
 6でも、敵と戦うときに、行動予測がたくさん出てくるけど、あれなんかゲームのボス戦で死にながら試行錯誤している感じでした。

飯田 『アイアムアヒーロー』の映画版で、外ではゾンビが徘徊している状態で主人公がロッカーの中から脱出成功できるかを何回もシミュレーションするのを思い出した。ゾンビ映画つながりで言うと。
 僕は正直『バイオ』はゲームも映画もそれほど思い入れがありませんが、藤田くんはゾンビ評論家としていろいろ言いたいことがあるのでは。


藤田 映画の『バイオハザード』って、ゲームから設定借りてるけど、全然別物ですよ。ゲームはもっとじんわりしたホラーだけど、映画は派手なアクション映画で、超展開していく連載漫画みたいなテンション。
 ゾンビ映画としても、感染、サバイバル、集団の維持みたいな「ゾンビ・フォーマット」と呼ぶべき基本が全然描かれてない。描かれるのは「突入」と「脱出」、その繰り返しだけと言っていい。ほとんどゾンビ映画らしくない。ゲームの構造をそのまま模倣したような映画で、異様です。

 あと人間の生命は全体的に軽いw このシリーズはw PTAとかが貶す意味で使う「ゲーム的」という言葉の意味そのまんまの感じでしたね。

飯田 『ウォーキングデッド』以降お約束とも言える「ゾンビだってもともと人間だったのに、仲間や家族だったのに殺していいのか? ってところで悩む」がないよね。ゾンビも人間もバンバン殺すという……。

藤田 ウェットなところが大してなかったのがいいところだったんですよ。ゲームでのゾンビや人命の扱いってそのぐらいのサクサク感だから。それが、最後に急に人間らしいウェットな話を主人公にだけ出してきてもな……とは思う。


飯田 ゾンビ映画はゾンビ対人間であるだけでなくて、ゾンビがいる世界のなかでの人間対人間が描かれるものだけど、映画『バイオ』の場合はゾンビの原因となるTウィルスをつくったアンブレラ社という大企業の人間vsそれを阻止する人間(小集団)との戦いのほうがメインと言っていいくらいの内容。
 今回なんてとくにもう、完全にゾンビがおまけ。『マッドマックス 怒りのデスロード』における襲い来る砂嵐みたいな役割になっていた。荒野、廃墟をバイクで走るしねw

藤田 3と6は、『マッドマックス』っぽいですねw

今どきクローンなのかオリジナルなのかで悩むってどうなの?


『バイオハザード ザ・ファイナル』を観て、別に人類は生き残らなくていいと思った話

藤田 ジャンルがあまりにも変わってるんじゃないか、っていうのはありますよ。一作目は研究室に潜入する話なのに、3では『マッドマックス』みたいになるし。ハイパー超能力バトルみたいになったりもするし。ミラが演じるアリスのクローンがいっぱい敵を襲うとか、絵面がほとんどギャグw 褒める意味で言っています。
あそこすごい。

飯田 主人公のアリスが『ボトムズ』のキリコみたいな存在だよね。もともとアンブレラ社の人間で、Tウィルスに感染したけどゾンビにならずにめっちゃ強くなった唯一の存在。パーフェクトソルジャーが黒幕である(?)スーパーコンピュータから出生の秘密を聞かされる話だし。

藤田 で、さらに異様なのは、それぞれの作品の結末で、先を期待させる「前フリ」するのに、いきなり次の回でなかったことにするでしょうw 5と6の間とか。よくこれ、お客さんが許して、ヒットしているなと、驚きます。


飯田 本当だよね。クローンと記憶操作を使うとワンパターンかつありがちなネタになりやすいけど(「実は生きてた」「実はあっちがクローン」「おまえは私が作った」「記憶がないのはクローンだから」「クローン元とクローンの戦い」)、これも難を逃れていない。ただなんかMGSみたいな話になってるなとは思った。オリジナルのアンブレラ社の科学者とクローンである主人公アリスと、オリジナルの頭脳を元につくられた人工知能・赤の女王が出てきて、クローン人間と人工知能という子ども同士が戦ったり共闘したりすると。ただそこで悩むことは今回さほど主題になっていないけど……。

藤田 「潜入」「脱出」の構造だったり、「現実が現実ではなかった」みたいな主題は、MGSと似ていますね。いくつか、MGSを連想させるシーンはありました。

飯田 シリーズを通して「前作で敵だったやつが味方に」(とかその逆)「死んだと思ったら生きてた」がくりかえされる。何が本当なのかよくわからない、ポストトゥルース時代らしい作品ですね(真顔)。

藤田 率直な感想を言えば、「クローンかオリジナルか」という、本作の肝心の大オチが全然効いてこなかったんですよ。そこは、文化差なのかなぁ…… キリスト教の世界ほど「オリジナル」に拘らない日本の文化だと、「はぁ、別にコピーでもいいやんけ」ってなっちゃう
 それだったら、一作目と六作目とのアリスが実は同一人物ではなかったとか、そういう仕掛けをやってもいいし。記憶を受け継いだら「真の人間」になるっていうこと自体に、なんか感動がない。そんなに「真の人間」である必要ありますかって思っちゃう。

飯田 そうなんだよね。ディックが半世紀前からそんなの描いてるじゃん、って思っちゃうよね。真の人間なのか模造人間なのかでウダウウダやられても。

藤田 「どう見てもCG」みたいなインチキな質感で、歌舞伎っぽい「ジャーン」っていう画面を連発するだけ、っていう安っぽさこそがこの映画の魅力なんだから、「いや、お前、ニセモノを肯定しろや……」ってモヤモヤした。

人類は絶滅してゾンビと生物兵器だけが生き残ったほうがよかった!


『バイオハザード ザ・ファイナル』を観て、別に人類は生き残らなくていいと思った話

飯田 アンブレラ社の幹部だけ生き残ってゾンビ絶滅させるのと、アリスが救おうと思っている人間たちだけ残してアンブレラ社の幹部はぶっ殺してゾンビ絶滅させるのって一体何が違うんだろうと思っちゃった。「人類が生き残る」という観点からすれば結果は同じだし。
 人類が増えすぎて地球を破壊しているのはよくないから俺たち以外みなごろしにしようというのがアンブレラ社の目的で、これはわかりやすい選民思想だよね。だけどそれに対抗するアリスも「アンブレラ社は生き残るべき人類ではない」という決めつけがある。
生き残るべき人類>死ぬべき人類>ゾンビ っていう位置づけの階層があって、生き残るべき人類ポジションをめぐって争っている。

藤田 地球を破壊する人間こそが悪いんだから滅ぼそうっていう話、90年代に散々やったじゃん、ってアンブレラ社の動機にはがっかりですね。アンブレラ社の動機の、ファイナルファンタジーの悪人っぽさも、日本のゲームへのリスペクトと、思えなくもない……けど、ないな。

飯田 アリスがアンブレラ社の戦車にロープでつながれてゾンビが追い駆けてくるなか走らされるのを、あとからアンブレラ社の人間にやりかえすでしょう。ああいうのは、見ていてあんまり気分がよくない。「アンブレラ社の人間は殺していい」という前提が相当危うい。あれは既得権批判とか富裕層批判をするときのポピュリズムと同じニオイがするね。

藤田 トランプ支持者が好きそうな映画、と。WWEっぽい演出ではある
 しかし、ゾンビに未来を託すとか、そういう思い切ったことをやれないで、結局「人間」に回収してしまうのが、本作の弱さですよ。アリスのクローンがいっぱい出てきて、超能力使いまくって、もう明らかに人間じゃない存在になっちゃってるんだから、あの勢いのままそれを肯定した方が絶対に面白かったのに。そこが残念。ゾンビ側の観点が薄い!!

飯田 むしろアンブレラ社のつくったゾンビと生物兵器しかいない世界になった行く末が見たい。まあ、ゾンビものにしてはおそらく珍しく人類大勝利エンドなのはおもしろいっちゃおもしろいけども。

藤田 ゾンビ渦を止めたのを描いたのは実に珍しいですよ。
 進化した生物兵器やゾンビに未来を託しちゃってもいいよね感はありますね。『エヴァンゲリオン』の劇場版の最後で、初号機が宇宙に旅立ったからいいや、みたいな。生物兵器が進化して知能を持って社会を構築して「めでたしめでたし」とか、あってもいいわけですよ。腐海になって、「ナウシカに続く」でもいいんですよ。
 わざわざブレる2Dのカメラ使って3Dにコンバートしているんで、画面がものすごく早くて、もう単なる光の明滅の刺激が延々続く感じ。この映画が面白いと思う人間の脳みそもゾンビ並なんじゃないか、俺の脳もゾンビぐらいバカだな……って思いながら観ていたので、映画の最後でゾンビを否定したとき、「この野郎」って思ったw 内容が形式を裏切っちゃってるんだよ。

飯田 見ていて「人類、そこまでして生き残らなきゃいけないっすかね?」と考えさせられた。
 この宇宙ができて138億年くらい経つわけですが、人類の歴史なんて誕生から数百万年しかない。ホモ・サピエンスが覇権を握って地球支配した気になってからなんてそれよりずっと短い歴史しかない。類人猿のなかでもネアンデルタール人やデニソワ人は絶滅しちゃったわけだし、現生人類の代わりにゾンビみたいなべつの生きものに対して劣勢になったり滅ぼされても全然おかしくない。どの人類が生き残るべきかなんて議論は近視眼的というか人間中心主義すぎるよ。

藤田 その人間中心主義が、この映画の限界のように見えるのは、賛成です。西洋人というか、キリスト教の思考に由来する限界なのかなぁ……

飯田 もちろん、ゾンビ化した人類以外にもゾンビ化した犬や生物兵器がうようよしているわけだから、そいつらにゾンビ人類が絶滅させられる可能性もありますが……

藤田 最近、鳥が恐竜だっていう説が出ていますが、恐竜は絶滅していなくて、鳥が恐竜って言っていいなら、ゾンビが人類だと言ってもいいわけだ。

飯田 そうだね。ゾンビも口が食虫植物みたいになったり、捕食するために進化しているし、あのままほっといたらゾンビのカンブリア爆発みたいなことが起こってめっちゃおもしろい生きものたちが出てきて楽しいのでは。

ちょっと文句付けたけどポール・W・S・アンダーソンの独特の感性は全力で支持!


藤田 ポール・W・S・アンダーソン監督は『DOA/デッド・オア・アライブ』や『エイリアンVSプレデター』の監督もやっていて、どっちもゲーム原作の映画ですよね。映画とゲームの混ざった、「現実」との対応がどうでもよくなってしまった変異体のような映画を大量に作っていて、その観点からすると、面白い作家なんですよ。
「お前の作る映画自体が、生物兵器みたいな、変な進化の産物なんだから、オリジナルとかに拘らないで、そのまま進化していけよ」って思いましたよ。

飯田 生き残った人類同士が死を賭けた『デスレース』をやって人をひき殺しまくってポイント稼ぎ争いをする未来しか想像できなかったですね。

藤田 歴史物の『ポンペイ』は、薄っぺらでペラペラで本当に観てらんなかったんで、もうそっちの重厚な本物路線は捨てて、『デスレース』とか『エイリアンVSプレデター』とかの路線で突っ走って欲しいよ……

飯田 映画の中は殺伐とした近未来だけど、監督と主演女優がこれで出会って結婚して映画は大ヒット、ふたりのあいだには子どもができて最終作には子どもも出演とかできすぎた話じゃないかという現実とのギャップがすごい。

藤田 二人の壮大なイチャラブを見せ付けられている感もありますよねw 一作目の撮り方は、本当にエロかったもの…… カメラと演出に、愛を感じましたよw

飯田 ゲームのことを制作陣はリスペクトしまくっているのに新作が公開されるたびに「しょせんゲームの映画化」みたいなくさしが映画評論家からまったく絶えないのがある意味すごいというか、いつまでもアーティスティックな成熟とか評価を求めていないポール・アンダーソンがすごいというか。

藤田 ゲームの方が、芸術的価値が上になるような、逆転の時期にさしかかっているような気もするんですけどね。