RPGツクールで作ったゲームが2010年代日本で人気の不思議
『殺戮の天使』ウェブサイトからキャプチャ


ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。今回はフリーゲーム『殺戮の天使』について語り合います。


ゲーム実況で人気、コミカライズも


飯田 『殺戮の天使』は、『霧雨が降る森』でも知られるフリーゲーム作家・真田まこと(星屑KRNKRN)の作品。「ニコニコゲームマガジン」というサイト上で配信されている、個人制作のホラーゲームです。閉鎖病棟らしき場所に閉じ込められた、自分を殺してほしいと願う少女レイが、その建物から脱出したがっている連続殺人鬼ザックと「地上に出られたら殺してもらう」という約束をし、抜け出るために探索していく、と。ゲーム実況でも人気だし、コミカライズも15万部以上いっているそうです。

藤田 スーパーファミコン初期ぐらいのグラフィックの、アドベンチャーゲームですね。フリーゲームなんだけど、連載形式になっている。ゲームで物語を連載するというのが、実に面白いですね。
以前に『ひぐらしのなく頃に』とかゲームで連載の例はあったけど、あれはノベルゲームだった。こっちはキャラクターをプレイヤーを操作するアドベンチャーゲームなんですよね。

飯田 『霧雨』はまさにストーリー的には『ひぐらしのなく頃に』的な伝奇ホラーで、今回は閉鎖空間もの。『霧雨』は無口なのは男の方で、今回は女の子のほう。
 ただストーリーのネタバレをこの作品に関してはしたくないというかしづらいというか……話の展開を文字にするとけっこう荒唐無稽なんですよ。でもゲーム内のリアリティレベルは統一されているので、プレイするか動画を観てもらった上で、この対談を読んでほしいですね。


藤田 あんまりストーリーの話をする必要はないと思いますね。確かに荒唐無稽と言えば言えるんだけど、心理的なリアリティというか、幻想世界としてのリアリティはあると思いますよ。プレイヤーが実際に操作して探索するということありきのストーリーでもあるし。
 不可思議な状況にプレイヤーが置かれて、謎が謎を呼び、それを知るために先に先に進みたくなる。ゲームというメディアに適したストーリーテリングをしていますね。プレイヤーが能動的に「この世界はどうなっているのか?」と探索したり自分で考える物語はゲームに向いているんですよ。


飯田 そうですね。話題になる作品は普遍性と時代性の両方があるもので、『殺戮』に関して言えば、いつでも楽しめる作品という面がまずある。どんな時代にもこういうタイプの作品を必要としている人間はいる。自意識をこじらせて「自分ってなんだろう」とか「生きてくのしんどい」とか思ったときにすごく刺さる作品だと思う。
 であると同時に、ゲーム実況で人気になるような日本のフリゲは、数あるCGMのなかでも物語性が高いジャンルで、若い女子を中心に独自のマーケットを形成している。ウェブ小説ともまた違うし。
pixivで女子にうける中二病っほいエグめのマンガがいちばん近いと思いますが。『殺戮』もけっこう簡単に人を殺すし、ゴア表現はないけど暴力描写はあるし、頭のおかしい人物はいっぱい出てくるし、なんかやばそうな雰囲気、病んでいる感じが特徴的。そういう、フリーゲーム界隈での流行りとも合致している。

藤田 不思議なんですよね、日本のフリーゲームで人気になるもののうちの一角に、ちょっと残虐な風味をスーパーファミコン的な画質でデフォルメして表現するようなアドベンチャーゲームがあるというのは。

飯田 不思議だよね。流通的な理由もあって、2010年代なのにスマホ向けアプリゲームよりも(ニコニコゲームマガジンはスマホでもプレイできるけど)RPGツクールでつくったゲームが実況動画を通じて人口に膾炙する。
そういうルートでインディクリエイターが注目される回路ができている。vineやYouTubeがスマホ時代に花開くのはわかるけど、まさかの展開。
 まあ90年代から2000年代前半にかけてあんなに同人でもノベルゲームが流行ったこともふしぎといえばふしぎですが。がんばればひとり~数人で作れるのがいいんだろうね。作家性が立ち、わかりやすいエンタメとして成立するちょうどいいところを探すと、今はRPGツクール的なものが意外とよかった、と。
 ただフリーゲームのほうがノベルゲームよりビジュアル要素、視角的な部分が訴えるものは強い。
あと、かつては男性向けとかポルノメディアがエッジであったけど、今は女性ファンこそが新しい表現の火付け役になっている。

藤田 昔、インディーゲーム論を書いたけど(『ビジュアル・コミュニケーション』所収)、あれで海外のインディーゲームをやりまくって思ったのですが、外国でのインディーゲームはやっぱり3Dになることが多い。しかし、共通点もあって。精神世界みたいなものを描く傾向は、両方ともにあるんですよ。
 それはインディーだけじゃなくて、PS4で出た大作『Bloodborne』なんかも、精神世界の隠喩となるような世界を、美麗な映像と3D建築で提示していた。ゲームの一部には、そういう流れはあるんですよね。

飯田 なるほど。日本でホラー、ダークファンタジーが隆盛しているのはあきらかに『ゆめにっき』『青鬼』『イヴ』『魔女の家』という先駆があったおかげだけども。
 ぜひギレルモ・デル・トロとかにプレイしてもらって感想を聞きたいw

藤田 元々、専門知識が必要だったり、あるいはビッグバジェットが必要だった「ゲーム作り」が個人でも出来るようになったから、「個人」とか「内面」とかを描く方向(今まであまり掘られていなかったニッチ)が可能性として見えてきている部分はあるのかもしれませんね。

飯田 フリーゲームについては、かつての個人や数人で制作できたファミコン初期くらいまでのゲーム制作と似ていると言う人もわりといますね。
 基本的には、レイが自分が何者かを探していく話、実存主義的ダークホラー。ノリはそこまで重たくないんだけど、死にたさ、殺したさを動機にしているドラマなので、なかなかメジャーなゲームやアニメとかでは扱いにくい題材。まさに個人制作向け、内面掘りたい人向け。そういうものに、思春期にはハマる人間がいるのはわかる。

ゲームを通じて、実存的な悩みや衝動に触れる


藤田 「この現実」ではなく、ゲームの世界だからこそ、「別の現実」のような、ある意味病んだ世界観を構築した方が面白いというのもあると思うんですよね。自身の自意識的なものの投影かもしれないし、自分が現実で体験できないものを体験したい欲求なのかもしれないし、それはどっちなのか確定しがたいですが。

飯田 生きづらさとか、親しい人間にも言えない重たい隠しごととかを扱っている。昔なら文学青年の悩みだったろうし、文学がそれに応えていただろうけど、今はフリゲがその機能を担っているところがある。

藤田 ゲームの世界の極端な性格付けをされているキャラクター(殺人鬼の男と、殺して欲しい少女)と、不思議な設定の世界(閉じ込められていて脱出しなければいけない)の「ゲーム」を通じて「実存的」な何かに触れるような経験をするというのは、面白いですね。
 自意識とか個人とか存在の謎そのものと、ゲーム内の謎が、重なる経験は、特有の経験で、ぼくにもそういう経験をしていた時期がある。その「経験」の不思議については、今でも考え続けていますが……。

飯田 それを自分の手で探っていけるというのがいい、と。

藤田 多分。ゲームというメディアの固有性のひとつは、そこでしょうからね。文学が担っていた役割の一部は代替されてしまっている部分がありますが、違うのはそこでしょう。

飯田 ただそういうものがゲーム実況でも人気、というのは、ひとりで没入してプレイしていると照れや恥ずかしさがあるけど、友達に「実況おもしろいから見てよ」って言えばそういう実存的に内面を掘るのが好き、殺人や自殺願望のあるキャラが主役の作品が好き、という「やばくね?」って言われそうなことを脱臭できる、警戒されないで、でもわかってほしい、という願望にもつなっている気がします。
 突っ込み入れながら楽しんでいる、そこまでマジじゃないし、というエクスキューズ付きだからこそ、内面的な問いにも向き合えるのかもしれない。

藤田 ぼくも印象に残っているゲームって、単なる遊びとしてゲームをプレイしているつもりが、自分自身そのものへの問いに折り返されてくるときが、確かにあった。ぼくの好きな作品で言えば『ライブアライブ』とか、勇者がお姫様に自殺されて、世界を滅ぼす邪悪な存在になっちゃう。そういう暗いところが好きでした。『FF4』も登場人物が死んだり、親友が敵になったり、ヒロインのお母さんを主人公が殺しちゃったり、暗かった。『クロノ・トリガー』でも、プレイヤーの代理としている主人公が、死んでしまう。『FF7』も、主人公が廃人に近い状態になったりする。それにハマってた人間からすると、よくわかる。
 ゲームなんか遊び「なのに」、そういうものが入っている作品に触れたときには、何か惹かれるものが確かにあった。当時、ガチのスクウェア信者だったわけなので、ニコニコの実況とかフリゲとかで遊んでいる中で、自意識とか実存とか「死」とか、重い話が入ってくると、刺さる部分あるってのはよくわかる。遊んでいる最中ってのは、心が解放されていて油断しているからなのか、なんなのか……。裏側から刺される感じのショックがあった。

飯田 しかし、たぶん今の日本では、フリゲ以外にこういうタイプの作品が世に出る(出やすい。人気も含めて)入り口になるジャンルはあんまりないんじゃないか、という気がする。殺されたい願望のある女の子とガチで連続殺人鬼がペアになって、人殺しも厭わず進んで行く話だからね。ネット流通のフリーゲームみたいなものじゃないと、なかなか倫理的に許容されないと思う。ほんわかした日常ものでもなければわかりやすく露骨なラブストーリーでもないしさ。

『殺戮の天使』は文学である!


藤田 あんまりオチには触れない範囲で。「閉じ込められている」作品の設定は、現実では出していけない衝動が「閉じ込められている」こととアナロジカルになっていますよね。そして、それは、現実ではない「ゲームという世界」の中に閉じ込められていることと、類比的にプレイヤーは感じるはず。そこらへんがまた、面白い。
 こういう密かな「自意識」なり「病」なり「暴力」なり「性愛」なりに堂々と触れれる他のジャンルとして「文学」があるので、こういう作品が好きな皆さんは、古典の文学の名作のヤバイのを堂々と読むといいですよw サドの『ソドムの120日』とか、ジュネの『泥棒日記』とか、谷崎潤一郎の『春琴抄』とか、江戸川乱歩の『孤島の鬼』とか、マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』とか。殺す、殺される関係と愛を結びつける小説もたくさんある。バタイユの『マダム・エドワルダ』とか、三島由紀夫作品とかの辺りは、いいのがありますよ。中村文則の『教団X』もいい。文学は、堂々と読んでいいし、褒められるから! 並みの表現より遥かにエグくてヤバイのがいっぱいなので、オススメです。

飯田 文学的だと言いすぎるもなんなんですが……w
 エンタメとしてよくできている。いろんなひとをぶっ殺しまくるのは暗い欲望を満たすところがあるし、設定とキャラのキャッチーさ、中段のサスペンス、どんでん返しがあって、飽きさせない。
 主人公のレイとザックの関係を説明するだけでその先のドラマが見たくなる。キャラが立ってる。たとえばザックは「ジャンプ」とか「ヤンジャン」に出てきそうなツンデレダークヒーロー、オラオラ系だけど仲良くなるとすごいいいやつな面も見えてくる、とかね。
『うしおととら』を思い出したんですよ。「食うぞ」って言ってるとらと、「食わせねえぞ」っていう潮の関係に、ある意味では似ている。口が悪いふたりがお互いに必要としているところもいい。
ほかのみんなは別に殺してもいいというスタンスだから、世間的な意味での道徳は壊れてるんだけど。僕らが学生のころで言えば西尾維新の戯言シリーズみたいなものでしょうか。存在的に。ちょうど戯言シリーズもアニメになるし、比べてみてもいいんじゃないかな、と思います。