少子化対策、子育て支援、女性の社会進出、男性の育休――毎日のようにこうした言葉がヘッドラインに踊るが、政府の対応はどこか上っ面だけの表層というか的を射ないという印象を持ってしまう子育て世代のママは多いのではないだろうか。

しかしそれも仕方がないところがある。
なぜなら政策立案に携わる人たちが、ママたちの現状をきちんと理解できないからだ。それはいびつな日本の男性社会のせいだけではない。実は出産経験のある女性議員にも、アドバイスを与える有識者にさえもママたちの現状を伝えるのは至難の業なのだ。

なぜか? それは出産・育児が大変すぎるからだ。大変すぎるから、体験を記録している余裕のある人があまりいない。次から次へと新たな大変さが押し寄せてくるので喉元すぎれば、時にいい思い出という風に形を変えながら、忘れてしまう人が多い。


では出産・育児のリアルを知るにはどうすればいいのだろうか? 答えは簡単だ。川上未映子『きみは赤ちゃん』(文藝春秋)を読めばいい。

『きみは赤ちゃん』は芥川賞作家である川上が自身の妊娠から出産、1歳までの子育てを詳細に記した出産・育児エッセイだ。今年の7月に発売されて以来、読者たちの大反響を呼び、出版不況が叫ばれる中、重版を重ねあっという間に7刷を数えている。

「読者のボリュームゾーンは妊娠中の方や育児中の女性です。『感動したけど、同時に辛かった時期がフラッシュバックされて泣いてしまった』という方が多いですね」(文藝春秋・武藤旬氏)

同書には出産・育児の悲喜こもごもが芥川賞作家ならではの洞察力と描写力で描かれているが、担当編集者の上記コメントにも表れているとおり、とりわけ辛いことに関する記述は秀逸だ。


たとえば産後クライシスについて書かれた既述。夫である阿部和重(同じく芥川賞作家。文中「あべちゃん」)が過去にした発言にさえ怒りが込み上げてくることがあるとして続けたくだり。

――「あのときは生んだばっかりで頭もからだもぼうっとしてきき流してしまったけれど、なぜ500倍ぐらいの勢いであべちゃんが息もできなくなるくらいに完膚なきまでに叩きのめす感じでいい返さなかったのだろう」とか、過去のことを思い出してはあれこれこまごまこねくりまわして、悔しさで涙が止まらなくなったりもして、そしてそれはとどまるところを知らなかった。

これが、産後クライシス。不調からくるすべてのネガティブさがあべちゃんをめがけて発射されつづける日々だった――
(産後編「夫婦の危機、夏」より)

また家事を「おなじくらい」分担しているのではないかという夫に対しては

――「おなじくらい」やってるっていう発想がそもそもおかしいとは思わないのだろうか? こっちはおなかを切って※オニ※※を生んでからこっち、まったく眠っていないのにくわえてホルモンの崩れで頭が半分おかしくなっているのに、おなじくらいって、それはいったいどうなんだろう。
こっちは1年近くもおなかで人間を大きくして、切腹して、生んで、そして不眠不休で世話をして、いまもこんな状態で仕事までしてるのやから、ほかのことはぜんぶ、ぜんぶ男(あべちゃん)がするくらいで、ちょうどなんじゃないだろうか。ちがうのだろうか。わたしがまちがっているのだろうか。っていうか、それ以外に、いったい男に「なにができる」というのだろう。わたしはまじでそう思った――
(産後編「父とはなにか、男とはなにか」より)
(引用者注:※著者は帝王切開により出産。※※ オニとは 著者の赤ちゃんの本書での呼び名。
「オニギリ」からきている)

ママたちが経験する壮絶でギリギリの状況を知らずに「子どもを産み育てることに喜びを感じられる社会」を標榜されても、鼻白んでしまうのも無理はない。

もちろん出産育児はとても個人的なものだ。出産の方法一つをとってもさまざまな選択肢があり、川上の体験にすべてのママを代表させるわけにはいかない。

それでも本書が絶大なる支持を集めているのは、川上の体験が作家ならではの技量で「普遍化されている」(武藤氏)からだろう。そしてその普遍化を支えているのは、逆説的に聞こえるかも知れないが、徹底したディテールの描写だ。

よくそんなことまで覚えていられるものだと関心せずにはいられないような些細なことを、細かな心の動きと一緒に書き留めている。
その正確に描写された心の動きにこそ、ママたちの琴線に触れる普遍性があるのだ。

川上は、そうしたディテールを積み重ねるために、iPhoneで詳細な記録を取り続けていた。それはなんと破水して入院しても続いたのだ。
(つづく)
(文中敬称略)
(鶴賀太郎)