現役時代と引退してからのイメージが、これだけ変わった野球選手が過去にいただろうか。

甘いスイーツを嬉しそうに頬張り、プロレスのゲスト解説席で大爆笑しながらはしゃいでみせ、スポーツニュースのコメンテーターとして柔和な表情で座っている。


あの前田が……である。広島が誇る孤高の天才バッター前田智徳。
怪我さえなければ日本人野手初のメジャーリーガーはイチローではなく前田だったとまで称され、あの3度の三冠王・落合博満をして「オレがプロ野球で唯一、認めるバッターだよ」とまで言わしめた男。

その存在を一躍全国区にしたのがプロ3年目の1992年9月13日の巨人戦(東京ドーム)だ。外野守備でエラーをして先輩投手・北別府学の勝ちを消してしまうが、直後の打席で自ら勝ち越しホームランをかっ飛ばしグラウンドで涙を流した若者は、試合後のヒーローインタビューも拒みひたすら泣き続けた。

怪我との戦いだった現役時代


そんな時代遅れの愚直で真っ直ぐな“侍”とまで称された男が、2017年には愉快な46歳のおじさんになった。

普通ならガッカリするところだが、個人的には良かったなと思う。

なぜなら現役時代の前田からは「この選手は野球を辞めたらどうなってしまうんだろうな……」と見るものに思わせる、危うさと殺気が感じられたからだ。95年には右足アキレス腱断裂で復帰までに1年近くを要し、その後も肉離れやアキレス腱痛に悩まされた。前田のキャリアは怪我との戦いとも言っても過言ではない。

ホームランへのこだわりが意外にも強かった


そんな満身創痍の状態で通算2119安打を放ち、98年には打率.335、24本の好成績。34歳で迎えた2005年には自己最多の32本塁打を記録している。

意外にも前田のホームランへのこだわりは強く、1歳年上のチームメイトで90年代を代表する和製大砲のひとり江藤智を強烈にライバル視。
当時の水谷実雄打撃コーチに「水谷さんは江藤さんばっかりや」と文句を言い、契約更改では江藤の年俸アップ率の方が高かったことに「もうヤル気がしない」とまで愚痴ってみせる。
頑固一徹の一匹狼、無口だが自分が納得できないことには物申すスタンスは学生時代から変わらない。

数々の「前田伝説」が残る高校時代


引退後に発売された『前田智徳 天才の証明』(堀治喜)に詳しく書かれているが、地元・熊本では嘘か誠か数々の「前田伝説」が残されているという。

野球部の後輩が他校の生徒に喧嘩でやられたら、前田がひとりで乗り込んでぶっ飛ばしたという噂。電車内で絡まれ揉み合い寸前になったとかならないとか。
人気漫画『ろくでなしBLUES』の前田太尊のモデルは前田智徳だったのか……と思ってしまうエピソードの数々(そんなわけない)。

名門・熊本工業で高校野球専門誌から「右の元木大介、左の前田」と注目されていたスラッガーは、最後の高校3年夏の地区大会決勝戦で敬遠攻めの相手投手に向かって「勝負せんかい!」と一喝。血気盛んな高校生同士、相手投手も「なんやと!」なんつって言い返し一触即発の雰囲気に。

そして試合再開後、頭に血が上った投手は前田に勝負を挑み、天才バッターはライトスタンドへ特大の逆転ツーランを放ってみせる。結局、この試合を3対2で制した熊本工業は甲子園出場を決めるわけだ。ってまるで漫画の世界である。

カープ一筋24年間 前田智徳の野球人生


同じ九州の同学年・新庄剛志(西日本短期大学附属高)よりも数段上と称された誰もが認める逸材も、あまりのヤンチャぶりで89年ドラフト会議では上位指名回避され、熱望していた地元九州のダイエーホークスではなく広島カープから4位指名を受ける。

入団直後も寡黙なキャラで誤解を生み、先輩選手から理不尽にシメられ「野球を辞める」なんて球団を大慌てさせる騒動も起こしている。それでも、すべては結果で黙らしてみせると、プロ2年目には初の開幕スタメンでプロ入り初アーチの先頭打者本塁打。
3年目の92年には打率.308、19本、89打点、18盗塁という堂々たる成績で早くもクリーンナップに定着する。

95年の「前田智徳は死にました」と本人が漏らしたアキレス腱断裂を乗り越え、江藤や金本知憲といった同僚たちがFAでチームを去る中、カープ一筋24年間。現役晩年は代打の切り札として存在感を見せた。

そんな恐るべき前田さんが、今はスイーツを食べながら満面の笑顔だ。人生は分からない。
いつの日か、カープに栄光の背番号1が指導者として帰ってきたとき、あの侍のような鋭い眼光が復活しているのか注目したい。

(死亡遊戯)


(参考文献)
『前田智徳 天才の証明』(堀治喜/ブックマン社)
『日本プロ野球偉人伝 1997→99』(ベースボール・マガジン社)