先日、落合博満氏が「サンデーモーニング」(TBS系)に出演し、今後の監督復帰について「話があれば考えます」と語った。

最近では中日時代の監督やGMとしての印象が強いが、選手時代は3度の三冠王に輝くなど歴史に残る大選手であった。


"野球一筋"ではなかった落合博満


意外にも落合は、プロ入りするまで決して"野球一筋"ではなかった。
高校進学し、野球部に入った落合であったが、体育会系特有の理不尽さに嫌気がさし、野球部を退部。余った時間には、映画館に入り浸っていたという。(落合はかなりの映画好きであり、2013年には映画に関する著書も発売)。

そして大学でも野球部に入ったが、またも体育会系のカルチャーが合わず、大学を中退。中退後の落合はプロボウラーを目指したこともあった。(交通違反の反則金を払ったため、プロテストの受験料を払えずに断念したというエピソードもある)。


しかし、周囲の勧めもあり、社会人野球チーム・東芝府中に入部した。そこで才能が開花した落合は、チームを創部初の都市対抗野球出場に導くなど、中心選手として大活躍。1978年にロッテから3位指名を受け、プロ野球選手の仲間入りを果たした。

凄すぎる落合の成績


しかしプロ入りしてからも、落合のマイペースぶりは相変わらず。前監督の金田正一らに打撃フォームを酷評されるも、絶対に自身の打撃フォームを変えることはなかった。こういった落合の姿勢は“オレ流”と呼ばれることになる。

結果を出せなければただのワガママであるが、落合は違った。

1981年に首位打者となると、翌82年には史上最年少の三冠王に輝いた。さらに85年、86年には2年連続の三冠王に。
あの王貞治でさえ成し遂げられなかった3度の三冠王に輝いたのだ。

1987年には、2年連続三冠王という記録をひっさげてセ・リーグの中日へと移籍。中日時代も本塁打王と打点王にそれぞれ2度ずつ輝くなど、結果を残し続けた。

“オレ流”を貫いた……史上初のFA移籍も


野球以外でも落合は“オレ流”を貫いた。
1993年オフに当時導入されたばかりのフリーエージェント制度を行使し、巨人に移籍したのだ。
落合はこれまでにも年俸調停を初めて行うなど、常に先陣を切ってきたのである。

巨人移籍後も4番を任され、94年、96年の2度のリーグ優勝に貢献(94年は日本一も達成)。しかし、96年オフに同じファーストの清原和博が巨人移籍してきたことを受けて、自ら自由契約を申し出た。

97年に日本ハムに入団したが、当時44歳という年齢の衰えは隠せず、翌98年に現役を引退した。

選手時代から“オレ流”で結果を残し続けた落合。
再び監督として現場に戻ってくることを期待したい。
(せんじゅかける)

※文中の画像はamazonよりなんと言われようとオレ流さ