芸能界からも様々な声が寄せられているが、筆者的には小室哲哉のツイート「正直、仕事で何とも言えない寂しさを感じるのは初めてです」が一番胸に刺さった。
日本の音楽界が空前の盛り上がりを見せた90年代、その牽引役となった2人の出会いをあらためて振り返りたい。
SUPER MONKEY'S時代から目をかけていた小室哲哉
小室が最初に安室に注目したのは、93年ごろのロッテ「マスカットガム」のCMといわれている。
当時の安室は、沖縄アクターズスクールの選抜ダンスユニット「SUPER MONKEY'S」の一員であり、このCMでは『愛してマスカット』に合わせてメンバーがダンスを披露。センターとして安室が一番目を引く作りになっていた。
この時点ですでに一級品の華があった安室だが、世間的な認知度はまだまだ。この段階で目を掛けるとは、さすがはB級アイドル好きの小室(記事はこちら)といったところか。
安室奈美恵は「trfの18歳バージョン」だった?
安室は94年8月から日本テレビ系音楽バラエティ『夜も一生けんめい。』の準レギュラーになり、95年4月に『THE夜もヒッパレ』リニューアル後はレギュラーに昇格したが、小室はそこでtrfを完璧に歌いこなす安室の非凡な歌唱力、ダンス力にあらためて注目する。
当時は、エイベックスの専務取締役だったMAX松浦がプロデュースした『TRY ME~私を信じて~』が70万枚超えを記録し、初のヒットが生まれた時期。この時点では安室奈美恵with SUPER MONKEY'Sだったが、ソロに転向するにあたって、その松浦から仕事上のパートナーであった小室にバトンが回ってきたのだ。
プロデュースを任された時点で小室には「trfの18歳バージョン」という明確なビジョンが浮かび、成功のイメージを掴んだという。
お互いに高め合う関係にあった小室と安室
そして95年10月、安室のエイベックス移籍と同時に小室による本格プロデュースが始まった。
第1弾となる『Body Feels EXIT』はオリコンシングルチャート3位で80万枚を記録。続く『Chase the Chance』でついに初の1位を達成し、ミリオンを突破。しかも、この間わずか1ヶ月ほど。
安室を通じて、ダンスミュージックを若い世代に浸透させる試みは成功した小室。次なるチャレンジは、安室の憧れのアーティストであるジャネット・ジャクソンのようなブラックミュージック要素を楽曲に加えることだった。
そうして登場したのが翌96年の『Don't wanna cry』だ。こちらもオリコン初登場1位だったが、この週のチャートが凄い。なんと、小室作品がTOP5を独占(記事はこちら)しているのだ。
安室という最高の逸材を手にしたことで、小室のプロデュース力もピークを迎えたのではないか。
安室も、小室により自身のベースにあるブラックミュージック嗜好が引き出され、アーティストとしての幅と深みが増して行ったのは間違いない。
以降、安室は「trfの18歳バージョン」とは別路線で独自のブランドを築いて行く。
お互いに才能を刺激し合い、引き出し合っていた両者の関係。この曲も収録されたアルバム『SWEET 19 BLUES』が、トリプルミリオンのメガヒットとなったのは必然なのである。
セルフプロデュースだった安室のファッション
『You're my sunshine』『a walk in the park』とミリオンを重ね、「アムラー現象」を生み出すほどにカリスマ化した安室だったが、そのファッションは彼女のセルフプロデュースだったという。「いかに自分がかっこよく見えるか」を基準に、自分なりのこだわりでコーディネートしていたのだ。
手取り足取りプロデュースされていた華原朋美とは真逆。その後の「小室離れ」のスムーズさを暗示させるエピソードである。
月9ドラマをプロモーションにしてしまった『CAN YOU CELEBRATE?』
徐々に大人の女性を意識した歌詞に意向する中で登場したのが、97年2月にリリースされた『CAN YOU CELEBRATE?』。安室と小室、両者にとって最大のヒット曲にして、数限りない記録を持つ名曲だ。
フジテレビ系月9ドラマ『バージンロード』の主題歌であり、オープニングには安室&小室が出演していたが、主演の和久井映見よりも安室の方が圧倒的に目立っていたのが凄い。
今と違って、月9ドラマは視聴率も影響力も絶大な看板枠。そこで、ここまで大胆なプロモーションが打ててしまうことに、2人の大物ぶりを感じることができる。
しかも、この年の10月に安室自身がハタチで結婚してしまうのだから、あまりにもドラマチックすぎる。
安室の結婚・産休が小室にとっての分岐点?
「彼女とTRFのSAMを本当にセレブレート(祝福)することになるとは思わなかった」と、TKジョークを飛ばした小室だが、これは小室にとってまったくの想定外だったのではないか?
音楽に関して実験的要素が多い小室のプロデュースにおいて、どんな無理難題もこなしてしまうだけの力があった安室。間違いなく、小室ファミリー随一の優等生だ。
そんな安室をほぼ1年間手放したわけだが、本当は才気みなぎるこの時期にもっともっと色んな可能性を探りたかったのではないか?
安室が休業した98年は、海外ではラップ系を中心にHIPHOPやR&Bが最高に盛り上がった時期。小室は自分が得意とするダンス系よりも、安室が得意とするブラックミュージック系に時代が傾いていることを痛感し、その他のユニットで模索を重ねている。
この空白の1年がなかったら、音楽シーンはどうなっていたのだろうか?
もっとも、安室にとってはこの期間があったからこそ、小室に依存しないのはもちろん、アーティストとして神格化して行ったのかも知れないが……。
01年1月までの約5年間続いた2人のタッグ、後期の力関係は完全に逆転していた印象だ。引退までの1年間に再びクロスする日は来るのだろうか?
見たいような、見たくないような気が……。
※文中の画像はamazonよりDon't wanna cry(Radio Edit)