これほど若手時代と監督になってからのイメージが違う野球人も珍しい。ソフトバンク工藤公康監督を見ていてそう思う。
30年前、“新人類”と呼ばれた若者も早いもので53歳のおじさんだ。

恐らく、2000年以降の工藤しか知らない若い野球ファンにとって、この男のイメージは40代後半まで現役で投げ続けた理論派投手だろう。
それが西武在籍時の自由すぎる工藤を見て来たオールドファンは、「いや、キャラ変わりすぎだろ」と思わず突っ込まずにはいられないこの感じ。

キャラ変わりすぎな工藤公康


例えば、引退後に出版された著書は『折れない心を支える言葉』『孤独を怖れない力』といった社会人向けの自己啓発本のようなタイトルが並ぶ。実働29年、11回の日本一を経験した通算224勝の殿堂入り左腕。もちろん凄まじい実績である。

でも、入団会見でパーマ頭に細眉で登場した工藤少年の姿は強烈だった。
何て言うのか、昔ヤンキーの同級生と同窓会で再会したら、やり手の社長になっていたような妙な寂しさがあるのは事実だ。

俺も工藤も大人になった……。最多勝争いをしている年に監督から「あと何試合か投げるか?」と聞かれるも、「個人タイトルはいりません。シリーズに備えます」と何の迷いもなく日本シリーズへ向けての調整に切り替えたと自著に書くデキる男工藤。

……と思いきや、西武の若手時代には優勝争い真っ只中のフル回転指令に「優勝するためにやってるわけじゃない。来年投げられなくなったら終わりでしょ」なんて生意気すぎる発言をして、スポーツ新聞の一面を派手に飾ったやんちゃな素顔も隠し持つ。
今回はそんな自由奔放だった工藤公康の若手時代を振り返ってみよう。

工藤を強行指名した西武ライオンズ


81年夏の甲子園で、キレまくりの直球と大きなカーブを武器にノーヒットノーランを達成したプロ注目の“愛知の星”は、社会人の熊谷組行きを表明する。しかし西武ライオンズがドラフト6位で強行指名。もちろんプロ入りする意志はなかった工藤だが、あの西武管理部長の故・根本陸夫が自宅にやって来て、工藤父と意気投合。夜中に叩き起こされ、急転直下の西武入りが決定する。

さすがの工藤も根本氏の白スーツ、白ネクタイ、白ハット、サングラスに葉巻のゴッドファーザースタイルに「あ、ヤバイ人だ」とビビリまくったという。だが、のちに野球界のオヤジとして根本を慕い、あの厳しい広岡達朗監督からは“坊や”と呼ばれ1年目から1軍起用される。


3年目のアメリカ留学を経て、4年目の85年には8勝を挙げ、防御率2.76で初のタイトル獲得。翌86年には初の二桁勝利に日本シリーズMVP獲得。87年にも15勝4敗、防御率2.41で2度目の最優秀防御率に。巨人との日本シリーズでも2勝1Sの活躍で2年連続MVPに輝いた。まさに順調すぎるキャリアだ。

ニュータイプのヒーロー「新人類」


ちなみに86年、ユーキャン流行語部門の金賞を受賞した言葉が「新人類」である。旧世代とは違う、まったく新しい価値観のもとに行動する若者たちの出現。
そんな新人類の代表として表彰式に出席したのは、当時黄金時代に突入しようとしていた西武ライオンズの工藤公康、渡辺久信、そして弱冠19歳の清原和博だった。

テレビ朝日『ニュースステーション』では、「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー」というバブル臭漂うコーナーが度々放送。毎晩のように六本木を飲み歩き、チームリーダー石毛宏典とのヒーローインタビューの漫才トークやビールかけでの熱いキスも話題を呼んだ。

もはやなんでもありのニュータイプのヒーロー。その象徴があの胴上げシーンだろう。
今ではお馴染みになった胴上げの輪から外れ、バックスクリーン側を向いてのバンザイジャンプ。
きっかけは同期入団の控え選手、故・相馬勝也から「俺も一度くらい目立ちたい。工藤が一緒だとカメラに映るだろうから、一緒にバンザイしてくれないか」と誘われたこと。87年日本シリーズの写真を見ると、満面の笑顔で飛び跳ねる背番号47の横で、38番の相馬さんの姿も確認できる。

「やんちゃな工藤」に別れ……48歳で現役引退


その後、89年に夜遊びのし過ぎで肝臓もボロボロ、絶不調に陥った工藤は26歳にして心機一転。雅子夫人と出会い、食生活とトレーニング法を見直しやんちゃな工藤に別れを告げる。

見事復活した91年からは5年連続二桁勝利、94年オフにはダイエーホークスへFA移籍。
バッテリーを組んだ若き城島健司を徹底的に鍛え上げ、99年には西武時代からの盟友・秋山幸二とともにダイエー初の日本一を勝ち取った。
直後に再びFAで巨人移籍すると、ここでもいきなり12勝を挙げ長嶋巨人の日本一に貢献。それ以降は、横浜、西武と渡り歩き、2011年48歳で正式に現役引退を発表した。15年にはソフトバンク監督として日本一達成。16年には野球殿堂入りも果たした輝かしい経歴を持つ男。

90年代以降の華麗なキャリアをほんの数行でまとめてしまったが、ダイエー移籍後も工藤は名実ともに球界を代表する左腕だったのは間違いのないところだ。
だが、イチローや松坂大輔が登場する前、“新人類”と呼ばれた第一期西武時代の工藤公康は確かに球界を超えて、時代の最先端を突っ走っていたように思う。
(死亡遊戯)


(参考資料)
『折れない心を支える言葉』(工藤公康/幻冬社)
『孤独を怖れない力』(工藤公康/青春出版社)