分裂すればいいのに……。こういう論調で語られるときは、打者としても投手としても成功している証拠です。
大谷翔平の勢いが止まりません。投げては8勝4敗の防御率2.02。打っては打率.360のHR16本(2016年8月12日現在)。どちらもハイレベルな成績を残しており、改めて、異次元の存在であることを証明しています。

さて、そんな二刀流という未知の領域に挑戦し続けている大谷ですが、彼以前にも、この難題にチャレンジしかけた野球選手がいました。
現役時代、阪神タイガース⇒ニューヨーク・メッツ⇒サンフランシスコ・ジャイアンツ⇒北海道日本ハムファイターズを渡り歩いた、流浪のスーパースター新庄剛志です。


俊足・強肩の外野手として鳴らした新庄剛志


新庄の野球選手としての実績は、いわゆる名球界入りするような選手と比べてしまうと凡庸。けれども、「何か起してくれるんじゃないか」という期待感のようなものは、誰よりも持ち合わせていました。
1990年、ドラフト5位で阪神からの指名を受けて入団。俊足・強肩の外野手として20代前半から頭角を現した彼に二刀流の話が持ち上がったのは、98年シーズンが終了した直後のこと。当時就任したばかりのタイガース監督・野村克也から「投手」としての才能を見出されたのです。

「鍛えれば150キロは出る」野村監督が発言


高知県安芸市で行われた秋季キャンプにて、ノムさんは新庄のプレーに度肝を抜かれたといいます。バッティングに関してではなく、鍛え上げた肩から繰り出される推定145キロの速球にです。「スゴイ球。
うちの"投手"陣の中で一番速い」と終始ご満悦の様子。
当時の阪神といえば、万年最下位に沈んでいた「ダメ虎」全盛期。投手陣も全体的に駒不足の状況であったため、知将は新庄がもつ「天性の肩」に着目したのです。
ノムさんは、早速、新庄をピッチャーマウンドに立たせます。投じた球数は25球。「下半身を鍛えてバランスが良くなれば150キロは出る」とまたも太鼓判を押され、こうして“二刀流プラン”は誕生しました。


「投手を辞めさせるために打とうと思った」との同僚発言


プロ9年目にして突然突きつけられたこの命題を、当の新庄はどう捉えていたのかというと、かなり前向きだったといいます。
元来、ファンを喜ばせることと、自身が注目を浴びることに心血を注いでいた男ですから、喜んで受け入れたに違いありません。

しかし、同僚の野手陣からはあまり賛同を得られなかったようです。中でも印象的だったのが、当時二塁手で後に阪神の監督も務める和田豊が残した紅白戦後のコメント。「新庄には、1・5人前の外野守備をしてもらうため、(投手をやめさせるには)新庄から打つのが目的だった」と発言しており、チームのために“本職”への復帰を願う向きも多かった模様。
二刀流に賛否両論が巻き起こるのは、いつの時代も一緒なようです。

怪我の影響で投手としての調整が出来なくなり…


3月に入ると、オープン戦にも登板。
投手としてのデビュー戦となった巨人戦では、4回に2番手で登場し、1回を3者凡退で仕留めるなど上々の内容。ですが降板した後、最終打席で左前打を放ったときに左大腿部を痛めてしまい、それが原因で投手としての調整が思うようにできなくなってしまいます。
結果、次に登板したダイエー戦では松中信彦に本塁打を浴びるなど、散々な出来に。怪我の影響も相まって、いつの間にか二刀流プランは立ち消えとなってしまったのです。

時を隔てて、10数年後。大谷がプロ入りした時にノムさんは「二刀流なんてプロ野球をナメている」と痛烈に批判(その後の大活躍を見て発言を撤回)。
新庄の件で誰よりも“兼業”の難しさを痛感したがゆえの、愛のムチだったのでしょう。
(こじへい)


THANK YOU新庄剛志―To All People (日刊スポーツグラフ)