296万枚……。CDの売り上げに多くを望めない今の音楽業界において、この記録を抜くのはほぼ不可能でしょう。
サザンオールスターズが2000年に発表した楽曲『TSUNAMI』。桑田佳祐のサザン・ソロどちらの名義においても、キャリア最大のヒット曲であるのはもちろん、日本のCD歴代セールスでも堂々の1位。リリースした年の暮れにはレコード大賞も受賞しました。

ちなみにレコード大賞授賞式の際、余程気分が良かったのか、桑田は「ひばりさんの背中が見えました」とのコメントを残しています。歌謡界の女王を射程圏内に捉えたとはかなり大胆な発言ではありますが、この『TSUNAMI』の大ヒット以降、明らかに桑田の立ち位置は変わりました。
出す曲はサザン名義だろうが、ソロ名義だろうが概ねヒット。
音楽番組にゲストで呼ばれれば、もともと90年代以降は大御所的ポジションではあったものの、さらに一段上のクラスとして扱われるようになった感があります。浜崎あゆみ、aiko、平井堅など、当時若い世代に人気のあったミュージシャンが、こぞってファンだと公言し始めたことも、そのブランディングに貢献したのは間違いありません。そう考えると「ひばりさん発言」は的を得ていたように思われます。

『TSUNAMI』以前の2年ほどは低迷していたサザン


しかしこの『TSUNAMI』以前、90年代最後の2年辺りはセールス的に低迷していました。きっかけとなったのは、1998年に開催した静岡県・浜名湖畔「渚園」ライブでのこと。「このライブをもって『勝手にシンドバッド』等の楽曲は封印する」と、桑田が発言したことに起因します。
『勝手にシンドバッド』等の楽曲とは、つまるところ「サザン=湘南」的イメージの作品群を指します。
事実、翌年のコンサート『セオーノ・ルーハ・ナ・キテス〜素敵な春の逢瀬〜』では、そうした人気曲は封印されました。

また、新しく発表する楽曲も『01MESSENGER』『PARADISE』『イエローマン』など、従来のサザンらしさからは程遠い、ハードロックやプログレを意識した楽曲がメインにリリースされていったのです。こうした突然の方向転換にファンは当惑し、売り上げの落ち込みに繋がったのだと考えられます。

「ミスチルの産みの親」との蜜月が終わって模索?


おそらく、この時期の桑田は暗中模索していたのでしょう。80年代後半から90年代前半まで続いていた、ミスチルの産みの親・小林武史との共同制作期間が終わり、またいつものクルーに戻った彼は、一種の喪失感に見舞われていたのかも知れません。
小林の洗練されたアレンジは、サザンの楽曲に革新をもたらしました。今も歌い継がれる名曲『真夏の果実』『希望の轍』におけるイントロ部分も、この敏腕プロデューサーが演奏しているのだから、その影響力は計り知れません。

その時に感じた刺激と同等の心躍るサウンドを欲して、色々試していたのではないでしょうか。

桑田佳祐を変えた歌舞伎町のシークレットライブ


転機が訪れたのは、1999年9月。ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」が開催された時でした。
会場となったライブハウスのキャパは1,000人程度。ドーム会場で何万人規模のコンサートを実施している彼らからしたら、異例中の異例。まさに“事件”的小規模です。
幸運にも会場に入れたファンは、普段は遠くに観ている桑田が目の前にいることに熱狂し、桑田もそれに応えて熱唱。後年彼は「ファンの空気に触れて刺激を受けた」と語っています。
ちなみにこのライブでは、しばらく封印していた「サザン的楽曲」も解放しています。そこでのファンの反応を見て、桑田の「ファンが喜ぶものを」というモチベーションが加速したのでしょう。結果、「売れるものを作った」と本人が語る『TSUNAMI』の制作に至ったのです。

『TSUNAMI』以降、桑田率いるサザンは「サザン的なサウンド」へと、自己模倣と言ってもいいほどの回帰をしていきます。
その楽曲に新しいものを見出すことは難しいかも知れません。しかしそこには、「ファンとの幸福な関係が築けるのならそれでいい」という、桑田の苦難の果てに見出した答えと居直りがありました。その結果、彼は紫綬褒章を貰えるまでの国民的音楽家へとなっていったのです。
(こじへい)

※イメージ画像はamazonよりTSUNAMI Single, Maxi