「時代というカンニングペーパーを使うな」という名言があるが、いわゆる“後出しジャンケン”という行為は非常にカッコ悪い。

現在、テレビ界で“最も数字を持っている男”と言っても過言ではない有吉弘行だが、猿岩石でアイドル的人気を博した一度目のブレイク時(96~97年ごろ)、彼の腕を見抜けた人がどれだけいるのか? 「有吉は昔から面白かった」という声はチラホラ聴こえてくるものの、ならば当時から言っていてほしかった。
声を大にして表明する勇気を伴ってこそ、我々にとっての事実になるのだから。

昔から有吉は有吉だった?


『電波少年』の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」企画で猿岩石を見出した番組プロデューサー・土屋敏男氏は、「当時の有吉に素養を感じていたか?」と問われ「全然なかったね」と即答している。
編集前のピュアな素材を切り貼りする作り手の感想がそうなのだから、当時の視聴者が抱く印象は推して知るべしか。

しかし今となっては、我々はもう有吉弘行氏の腕を知っている。その先入観をフィルターにし、当時の彼の発言を振り返ってみたいと思う。
まず、当時の猿岩石の記事を読み返すと、真摯にこちらを見つめて写真に収まる相方・森脇に比べ、有吉の眼の温度の低さが尋常ではない。当時、この表情を見ていたならば「スカしやがって」と認められなかったはず。
しかし、今となっては「昔から有吉は有吉だった」と嬉しくなってしまうから、現金なものである。

“1997年の有吉弘行”が苦悩を告白「今、毒を出してもお客さんが引いてしまう」


『ロンドンハーツ』(2013年11月19日放送)の「有吉先生のタレント進路相談」という企画で、波田陽区から「潜伏期間はどうやってモチベーションを保ってきたか?」と質問された有吉は、こう答えている。
「僕の場合は、お笑いとしては勝負してないんですよ。歌とかヒッチハイクで行って一回潰れてるんですけど、芸人としては潰されていなかった」

モチベーションを保つ理由としては十分な拠り所だが、逆に言えば、当時の有吉の「お笑いで勝負したい!」というジレンマは物凄かったはずだ。
この頃に受けた「日経エンタテインメント!」(1997年7月号)の取材でも「(お笑いの調子は)相変わらず、悪いんじゃないですかね(笑)」「僕らやっぱり、芸人としてやっていきたいです」と苦悩を告白している。……とは言え、今後の方向性を問われると「(少し考えて)歌ですね」と回答。この辺りの煙に巻く姿勢、ほのかに今と繋がっててニヤリとさせられる。


「Bart」(1997年1月1日号)のインタビューでは「この世界に入ったときからやりたかったことと、実際にやっていることのギャップは感じてます。(中略)ただ、今、無理に毒を出してもお客さんのほうがエ~となってしまうだろうし……」と発言。本性を隠していたのは計算だったことを察することができるだろう。
だが一方で、旅のことばかり聞かれる連日の取材攻勢について「僕ら、アドリブきかないんで、同じことを聞かれるのが一番助かるんです」と吐露。この辺りの“有吉節”、よく考えると現在の彼と全く変わらないではないか。付け加えると、「誰に支持されたい?」の質問に「僕は可愛いんで“主婦”と言っておきましょうか(笑)」と切り返す姿は、「やはり昔から有吉は有吉だった」と思わないでもない。

しかもこの取材時、有吉は当時一世を風靡していたミスタービーンについても言及している。曰く「笑いの質としては新しいものじゃないですよね。僕はあれ、昔から知ってるんですが、古典は古典、って思って見てます」。現在の有吉を知ってれば志向する方向性が異なるのは百も承知なのだが、芸人としての評価をゲットしていない時代にこの発言は強心臓である。

また、96年12月に開催された金沢工業大学「公開講座」にゲストとして招かれた猿岩石は、講師としてヒッチハイク旅を乱暴に振り返っている。以下が、学生を前にした有吉の発言だ。

「3日間、飲まず食わずにいると、犯罪も考えた。アイスクリーム売りのオバちゃんを押し倒そうと……」
「ヒッチハイクのコツは同情をひくこと」

膨大な数の過去インタビュー記事を見渡せば、有吉的な発言を見つけることはちゃんとできる。だがそれも、今の有吉を知っているからこそできる仕事。当時とは、有吉に対するイメージがまるで違うのだから。

ところで。かつての取材攻勢を通じ思うところがあったのか、現在の有吉弘行にインタビューを申請しても通る確率はかなり低いらしい。
「AERA」2014年1月13日号の表紙は有吉が務めているのだが、その時の条件は「撮影のみ」だったそうだ。有吉を表紙に起用したAERA編集部は、彼のこの姿勢を以下のように評している。
「猿岩石時代の大ブレークから急失速し、8年近く先輩芸人におごってもらいながら雌伏の時を過ごした。メディアに踊らされた時期が、メディアに踊らされない強さを作ったのか」

「我々は有吉を間違えて解釈しようとしてたかもしれない」(ナンシー関)


2度目のブレイクを果たし、盤石の地位を築いた後、某番組で有吉自身がこんな発言を残している。
「当時、僕の眼の奥が死んでるのを見破ったのは東野さんとナンシー関だけです」
これは、本当に凄いことなのだ。先見性にプラスして、当時のうるさ型による猿岩石への評価をカウンターする勇気がなければできない芸当である。


生前、“松本派”を自認していたナンシー関だが、彼女は有吉を以下のように評している。
「あんなに童顔なのに、どうしてふてぶてしさしか印象に残らないのか。ユーラシア大陸横断も、今となってドロンズや朋友(パンヤオ)と比べてみると、特に有吉はひたむきさに欠けるというか(今思えば、であるが)没頭の度合いというか、体温というかが低い感じだった。(中略)我々は有吉という人間を、間違えて解釈しようとしていたのかもしれない。有吉は何故かふてぶてしく見える、のではなく生来ふてぶてしいのだ」
「面白い/面白くない」のライン引きが今より格段にシビアであったダウンタウン全盛時に、このような文章を書くナンシーの軸のブレなさには脱帽である。

笑福亭鶴瓶&今田東野が司会を務める『いろもん』(日本テレビ系)に出演した猿岩石……というか有吉に異常な興味を示す東野の姿にも、脱帽。
「こいつはヒッチハイクで感動させるようなタマやないんですよ! それがずっと旅行してたから『おかしいな?』って思ってて、興味がごっつあったんですよ。で、喋ってみたら案の定ね、同じ仲間やったから」(東野)
当時の状況からすると、単なる物好きと思われかねない振る舞い。現在の芸人論客ツートップとも言える東野と有吉は、実は20年近く前から惹かれ合っていた。

有吉は当時から“有吉弘行”であったのだが、それを見抜き、発信していたのは東野幸治とナンシー関だけである。
(寺西ジャジューカ)
※イメージ画像はamazonより一生、遊んで暮らしたい [VHS]